第六話 兄さまのお守り(五)
「いらっしゃいませ」
玄関前で執事に出迎えられて、直は変幻をした兄さまと一緒に雪元男爵の屋敷に訪れた。
「これはこれは、安曇さま! 今日はどうされたんですか?」
「男爵のお言葉に甘えて、うちの子とお嬢さんが遊べないかと思い、遊びに来てしまいました。ご迷惑でしたか?」
「まさか! おいっ、あさを呼んでこい」
執事に男爵が命じると彼は背を向けて立ち去る。険しい顔から笑顔に変えた男爵にリビングへ案内をされたが、直からみておかしな点は見当たらない。
執事が男爵の娘を連れてくると、幼い少女は男爵の隣に腰掛けた。
「お嬢さんが、あささんかな?」
兄さまが問いかけると、あさは持っていたくまのぬいぐるみに顔を埋めてしまう。
「妻が病気で寝こんで以来、以前にも増して、人見知りが激しくなってしまいまして」
「奥さまは大丈夫なんですか?」
「はい、暫く、療養していれば大丈夫だそうです」
「男爵。よろしければ、この子とお嬢さんをふたりで遊ばせてもいいですか? 大人の話につきあわせては退屈でしょうから」
「それはもちろん。あさ、屋敷を案内してあげてくれ」
兄さまがさりげなく目配せをしてきた意味が分かった直は、あさと一緒にリビングから出る。
「あさちゃんって、呼んでいいのかな?」
彼女はこくんと頷く。
「僕はあさちゃんのお母さまを助けに来たんだ。お母さまはどこにいるかな?」
あさはじっと直をみると、その手に小さな手を重ねてくる。もう顔すら朧げになってしまったが、彼女の仕草に現世へと帰した妹のことを直は思い出した。少女に手を引かれるまま、屋敷の一番奥にある部屋へと、直は連れてこられる。部屋へ一歩、踏み入れると、背筋が寒くなるのを感じた。部屋の壁に飾らせてる絵を見て、直は吐き気を堪える。
この絵の女性に向けて兄さまから教えて貰った、相手の本性をみることができると言う狐の窓を用いて改めて、絵を覗きこんでみると、絵には花江の顔をしただけの化け物が描かれていた。彼女が腰掛けている椅子の下に、様々な色の花びらが落ちていることで、兄さまの予想が当たっていたことを知る。
「この人がきみのお母さまなの?」
あさは直の言葉に首を横に振る。
「新しいお母さま。この人が来てから、お家がおかしくなっちゃった」
微笑みを浮かべている絵だが、目が笑っていないように感じて気味が悪い。一度、兄さまに報告するべきだろうと踵を返そうとしたところで誰かにぶつかる。
「どうしたんですか? こんな場所で」
「し、執事さん。ぼく、あ、あの、迷って」
拙い直の言い訳などお見通しなのだろう。執事は絵をみたあと、直とあさのふたりから視線を逸らさない。
「困りましたね。あまり、餌を与えすぎても良くないと聞いたのですが」
執事が動くよりも早く、直は彼の脛を勢いよく、蹴り飛ばすと、あさの手を握って、急いで部屋から駆け出す。
「……くまさん」
「ごめん! あとで絶対に拾いにくるから‼︎」
あさが落としてしまったぬいぐるみを拾う時間すら惜しい。自分と同じ速さでは走れない少女を背に担ぎ、兄さまの元へ急ぐ。幼い自分の脚力など大したものではないのか、すぐに執事が自分たちを追いかけてくるのをみたことで、直は大声で兄さまを呼んだ。
「兄さま! 兄さま‼︎」
しかし、男爵と注意を逸らしている為なのか、兄さまは中々、現れてはくれない。このままだと、自分もあさも『伯爵令嬢の絵』に喰われてしまう。もう少しで追いつかれるというところで、自分たちを守るように、直の額から白い煙のようなものが出てきたことに、直はギョッとする。白い煙は犬のような形になると、執事に首元に噛みついた。
「ぎゃあぁぁぁ」
執事の叫びを後ろにして、兄さまのいるリビングへと走っていると、ようやく会いたかった人が来てくれる。
「に、兄さま」
息も絶えだえに彼の名前を読んだ直に、兄さまは悪いと思ってはいない様子で声を掛ける。
「待たせてすまない。男爵を眠らせるのに、時間がかかってしまって。その様子だと見つけたのか?」
「なんですか、あれ! 青年しか興味がなかったんじゃないですか? 食べられそうになったんですよ‼︎」
直が絵に食べられてしまうかもしれなかった怒りで、兄さまの脇腹をポカポカと殴っても、彼は笑ったままだ。
「……あさのぬいぐるみ」
部屋にぬいぐるみを落としたことで取りに戻りたいのか、あさが背で暴れそうになったことで、直はあさを下ろす。
「じゃあ、もう一度、奥の部屋に行こうか」
「嫌です‼︎」
そのまま動こうとはしない直に、兄さまはわざとらしく、困った顔を作る。
「直よりも小さいあささんが行くと言うのに」
「……うっ」
直は行かないのかと上目遣いで見つめられて、直は渋々と兄さまたちについていく。途中でまだ、倒れている執事を見つけたが、兄さまは気に留めることなく、部屋へと向かう。そういえば、自分の額から出たものはなんだったのだろうと、兄さまに聞くまえにまた、部屋へと来てしまった。
あさが自分のぬいぐるみを見つけて抱きしめると、兄さまは、あさに自分の部屋に戻るように告げる。あさが兄さまと自分をじっとみると、パタパタと音をさせて、部屋から離れたことを直は羨ましく思う。自分も気持ち悪い絵と対峙したくはない。
「これか」
兄さまは壁絵を見ると、首を振った。
「これはもう駄目だな。皮を変えている」
「皮、ですか?」
「ああ。少しでも永く、人を喰っていく為に、彼女は新しい体を得たようだ。麗子さんには悪い報告になってしまうな」
「この絵はどうするんですか?」
「悪食になってしまうが、私が喰うしかないだろう」
「? 兄さまが? 大丈夫なんですか、それ」
「さぁ。だから、直が必要なんだ」
「ぼくが?」
「私がもしも、異質して姿が黒くなってしまったら、この鈴で呼び起こしてくれるかい? 黒い私には理性がないから、直も食べてしまうかもしれない」
「……分かりました」
桜桃のようなふたつの大きめな鈴を兄さまから受け取ると、彼は一度、直の頭を撫でて、絵の中に手を突っこむ。絵の中の女性が兄さまの手に喰らいつこうとしたことに、兄さまは嗤うと姿を変えた。
絵の女性よりも大きな白い狐の姿になった兄さまは口を開くと、絵の女性を吸い込んでいく。全て、食べ終わったところで、兄さまは直をみた。
その目は普段の金色の瞳とは違い、真っ赤な色で直を捉えている。彼の口が直に向けて、大きく開かれても、彼が兄さまだと思うと、直は動けなかった。
「……兄さま?」
兄さまの毛の色は変わってはいないが、変質してしまったのだろうか。直は貰った鈴を一度、両手で握りこむと、必死になって、鈴を鳴らす。
「戻って……帰ってきてください。兄さま」
目の前の獣はぶほっと堪えきれないように笑いだすと、直に覆い被さってくる。ふわふわとした大きなぬいぐるみに押し潰されている感覚になった直は狐の顔をみた。
「兄さま! 変質してませんでしたね‼︎」
「うん。私が変質したときの直の反応が知りたかったからつい。本当に変質してしまえば、私の記憶も飛んでしまうから」
「心配したんですよ⁉︎」
本気で怒って、狐の顔の髭を引っ張れば、さすがに兄さまは痛そうな顔を見せる。
「やっぱり、兄さまの本体は狐だったんですね」
「面で本質を示しているから、分かりやすかっただろう?」
「はい。兄さまの上司というのは」
「直の世界でもいう『神』だ。上司が出来ることは、世界の創生と破壊だけだから、私とお前の言葉でいう『ワンコ』で神の憂いを失くす仕事をしているんだよ。今日のように人の手に負えなくなってしまったものは、私が喰らうしかない」
「もしも、兄さまが飲まれてしまったら」
「今までは、私を『ワンコ』が消失させる。しかし、片方だけの力では世界は安定させるのは難しいだろう。この世界には様々な災厄が訪れる。これ以上は世界を保てないと上司が判断をしたら、この世界はね。消えてしまうんだ」
「だから、ワンコさんはあんなに」
「彼も忙しくて、中々、現場には出られなくなってしまったね。これからは、直が私の『お守り』だ」
「お守り?」
「あぁ、もしも、鈴でも私が帰ってこないときは、鈴を壊せばいい」
「? 鈴を?」
「この鈴には私の真名が入っている。さすがの私も真名を潰されたら、生きてはいけないからなぁ」
「返します! 返したいです‼︎ なんてものを渡すんですか‼︎」
「直だったら、ものぐさの私とは違い、なくしたりはしないだろ? 私に持たせておけば、いずれなくしてしまうかもしれないよ?」
どうしても兄さまは直に鈴を持たせたいらしい。唇をぎゅっとすると、仕方がなしに直は頷く。直が頷いたことで、兄さまは人型へと変わる。
「直。手を出して」
兄さまに言われた通りに左手をだすと、直の手の甲に彼は花のような模様を描いていくと、鈴を模様の中に忍ばせる。
「き、消えた!」
「直の手の中に鈴を隠した。これからは、お前が必要だと思うときに、右の手で模様をなぞれば、鈴が出てくるから」
これ以上、兄さまに文句を言っても仕方がないだろう。軽く、手の甲を摩ると、直は真白くなってしまった画布をみた。
「もう、『伯爵令嬢』はいないんですね」
「なくなって良かったんだよ。これ以上の犠牲を出すわけにはいかないからね」
兄さまがふぅと絵に息を吹きかけると、青白い炎が画布を燃やしていく。絵が灰になっていくところで、男爵はようやく、目を覚ましたのか、燃えかけた絵まで走ると火傷をすることも厭わず、灰の固まりを抱きしめた。
「花江、花江……どうして……」
「雪元男爵。お聞きしたいことがあります。これから、十二階までご同行願いましょうか?」
「貴方たちは一体?」
「[[rb:花影 > かえい]]。上司の憂いを晴らす仕事をしています」
その後、直が兄さまから聞いた話だ。
執事と一緒に兄さまが男爵を捕縛し、彼に問いただしたところ、絵のコレクターであった男爵は闇市で噂の『伯爵令嬢の絵』が売っていると聞き、執事に金を渡して、絵を手に入れたらしい。軍部から絵が盗まれたあと、好事家の間で競りにかけられたが買った持ち主を絵は喰ってしまい、気味悪がった家族が絵を闇市に流したのだろうと兄さまたちは予想をしている。
そのあとは想像通り、たびたび、コレクションを披露すると言って夜会で呼び寄せた男性たちを花に変えて、絵に喰わせていたが、ここで男爵たちにも思いもよらないことが起こった。絵の婦人が『若返りたい』と言い出したのだ。どういう意味なのかが分からず、執事と悩んでいた男爵が妻の悲鳴を聞くと、絵の中の妻の顔をした婦人が口の中にアネモネの花をくわえていた。
妻が喰われたと知っても、既に絵に魅入られていた男爵と執事は絵を捨てることは出来なかった。娘に対する気持ちはまだあったようで、あさが絵に呼ばれて部屋に入ってしまったときには、娘には二度と部屋には入るなときつく言いつけていたらしい。
兄さまが絵を燃やしたことで、ようやく自分がどれほど、恐ろしいことをしていたのかに気づいた男爵は自分の罪を認め、あさは親類の家へ預けられると言うことだった。
「花江さんを助けられず、申し訳ありませんでした」
兄さまが麗子さんに頭を下げると、彼女は両手を顔の前で振る。
「いえ、本当は私が知ってはいけないこと、なんですよね? お話してくださってありがとうございます」
世間的には男爵が妻を病気として殺めたという内容が小新聞で出ただけであり、絵に魅入られた男爵が夜会の男性参加者と妻を喰わせたことは、書かれてはいなかった。彼が絵に喰わせた男性参加者は、男爵が口にするまでは行方不明の扱いのままだろう。
あとは人の仕事だと兄さまは軍部に引き継いだようだ。
「……花江はもういないんですね」
寂しそうに呟く麗子に兄さまは借りた写真を返す。
「花江さんのお嬢さんのあささんは、花江さんによく似ていました。今はご親戚の家にいるそうが、よかったら会いに行ってあげてください」
「そうですね。花江が見守れない分、これからのあさちゃんの成長を見守りたいと思います」
麗子と別れたあと、そういえばと直は兄さまに聞く。
「執事さんに追いかけられているとき、ぼくの額から煙みたいなものが出てきたんですが、あれも兄さまが」
「いや、ワンコがお前を守る為の呪いをしていたから、それが作用したんだろう。あいつが腹を壊した理由はそれか」
兄さまの言葉に、直は彼の服を引っ張る。
「た、大変じゃないですか! ワンコさんにお見舞いを買っていかないと。なにが好きなんですか?」
「……肉でいいんじゃないか?」
「兄さま、ワンコさんの好きなもの、知らないでしょう?」
呆れた口調で言うと、兄さまは笑う。
「直が好きなものは知っているんだが」
「えっ、知ってるんですか?」
「私、だろう?」
迷いなく告げる兄さまの前で直は両腕でバッテンを作る。
「違います! 兄さまも知っている物です‼︎」
兄さまはねこ舌と辛いものが駄目だという理由で注文しなかったが、直の様子をみていれば、カレーが好きなものだと分かりそうなのに、本当に一番、好きなものが彼だと兄さまは自惚れていたらしい。
思いの他、ショックを受けていそうな兄さまに直は仕方がないからと付け足した。
「兄さまは食べ物以外では一番ですよ」
数多くある作品の中からお読み頂き、有難うございます。よろしければ、ブクマや評価を頂ければ、嬉しいです。