第二話 兄さまのお守り(一)
直の仕事はいつまでも起きてはこない兄さまを起こすことから始まる。白い狐のお面自体が彼の顔かと思っていたがそんなことはなく、お面を取った彼の顔は狐によく似た面立ちの優男だった。どこかでみたことがある顔だと思えば、小学校の遠足で行った歌舞伎で演じていた人によく似ていることに気づく。
彼は人間ではなく、この世界を創った上司に代わり、管理を任されている部下ということだから、兄さまの本性は狐なのかもしれないと直は内心、思っている。
この世界は直が歴史の授業で習っていた明治と大正時代を鏡で映しとって再現したような世界だ。凌雲閣、鹿鳴館。有名な建築物は、直が図書館の図鑑で調べた過去の色褪せた白黒写真と遜色ない。
直は自分が異世界の人間になったわけではなく、タイムスリップをした人の感覚に来たばかりの頃は陥っていた。兄さまもこの世界を観測する役割がある為か、普段は人に溶けこみ、市井の人々と変わらない生活を過ごしている。
直を祭から助けた理由もこの世界に不純物が入ったことを寝入り端に起こされ、上司から見てくるように言われたらしい。そのあと、この世界に紛れ込んでしまった人間をどうするかの裁量は彼に任されているらしく、犬の面を被っている屈強な男からは、自分たち兄妹は兄さまに任されて、本当に運が良かった。下手したら祭りにいた連中に喰われていたんだぞ、と言われ、背筋が寒くなった。
ヨモツヘグイ。神話の世界では黄泉の世界の物を口にすれば生者の世界には戻れないと言われる。この世界でも他の世界の人間が紛れこんだ場合、この世界の物を食べた人間を好きにして良い、そんな規則があるらしい。あの場所は夜は雑多な場所になっているらしく、実際、直と同じように他の界隈の世界から紛れこみ、行方不明になったものも多いと言われた。
他にも彼らはいくつかの餌場を作っている為、兄さまたちの組織が、それぞれの場所の管理しているそうだ。何かあれば、担当者が確認したあとに兄さまに連絡がいくそうだが、今回の場所は一番、危うい土地であり、元々、兄さまが担当の場所だったらしい。
兄さまの裁量でこの世界の物を食べていない者は元いた世界へと戻し、戻れない人は信用出来る者に、兄さまは預けていた。彼自身が直を自分の元で引き取ろうと思った理由は、彼曰く、人の世でお節介な人々が兄さまの結婚相手を見つけようと頼みもしない仲人の真似ごとをすることに困っていたらしく、幼い弟の世話をしないといけないということで、今は見合い話を断っているようだった。『まぁ、私のようなハンサムの定めだな』と、近所のおばさんが回覧板と一緒に釣り書きを持ってきたときにボヤいていたが、どこまで本気なのか、直には分からない。
おばさんも悪い人ではなく、今まで包丁すらまともに握ったことはない直に、料理の仕方を丁寧に教えてくれた。旦那や息子が家事を全くしない分、歳を取ったら、直ちゃんのお世話になろうかしらとまで、最近では言われている。
鍋でご飯を炊き、少しだけ形が崩れてしまった卵焼きと豆腐と葱を入れた味噌汁を作り終えた直は兄さまの布団の上に助走をつけて走ると飛び乗る。
「ぐへぇ」
蛙が潰れたような声をあげながらも、枕から顔をあげた彼は直を見上げた。
「……直。この起こしかたはやめてくれと話しただろう?」
「こうでもしないと、あなた、起きないじゃないですか」
飛び乗った胸元を撫でている兄さまと一緒に直は食卓を囲う。
「最初はぐちゃぐちゃのべちゃべちゃだったのに、うまくなったものだな」
直が炊いた米を見て、感心したように兄さまが言う。
「……さすがに何度も炊いてれば慣れます」
兄さまが自分を褒める言葉に、褒めなれてはいない直の耳が赤くなる。この世界にはまだ炊飯器が生まれてはいない。『はじめチョロチョロ』と母から聞いたまじないのような言葉がこんなところで役に立つとは思わなかった。羽釜に米と水を入れて、かまどで炊くことなんて現代っ子だった直はしたことがなく、兄さまとおばさんに教わったものの、実際に炊いてはみても初めはなかなか上手くは出来ず、炊飯器が恋しくなった。そのうち、電気釜や冷蔵庫も発売されるだろうから、発売されたら、絶対、兄さまに買って貰おうと直は思っている。
直が食べ終えた食器を洗っていると、新聞を読んでいた兄さまが手招きをしてきた。
「直、おいで。まだ呼出はないが、これは事件になるだろう」
直は食器を洗う手を留めると布巾で拭う。
渡された新聞記事には男爵が自分が長年、集めていたコレクションの公表を夜会で行うと書かれている。ただ、これがどのような事件に繋がるのかが直には分からない。兄さまはコレクションとされている中の一枚の絵のことが書かれている箇所を指で軽く、叩く。
「この絵にまた、物好きな人間が魅入られてしまったようだ。これは私たちが探していた絵でね。まさか、こんな形で見つかるとは思わなかった」
「兄さまたちが追っている事件ですか?」
兄さまは世界の均衡を揺らがせる者たちを狩る仕事をしている。この世界の治安を守っているのは軍、警察官の前身となる邏卒の二つだけだと民は思っているが、もうひとつ兄さまが率いる組織がある。軍の上層部の一部は兄さまたちのことを知り、表向きは密偵のような部署を作ったらしい。世界の均衡をとれないと兄さまが上司に判断を下せば、この世界はなくなってしまうのだから、上層部も兄さまには頭が上がらないのは当たり前だろうが、事情を知らない他の人間から見れば、どのような組織なのかと不思議に思われているようだ。
「直にこの世界の人間は、死んだら花になると話したかな」
「ええ。いくら僕たちの世界とは似ていても、違う世界なんだと驚きました」
兄さまから異文化交流だと、この世界を案内されたとき、町には花の姿が全くないことに直は気づき、兄さまに『花屋』はこの世界にはないのかと気軽な気持ちで尋ねてみた。彼からなんて恐ろしいことを聞くのだと驚かれたことは記憶に新しい。
『ぼくの世界では、花屋があって、季節によって違う花を楽しんでいたんですが』
『直。この世界の人間は、生を終えると花に姿を変えるんだ。直の世界の感覚をこちらで言えば、屍体で町を飾りたてるようなものだ』
『は、花⁇ どうして、亡くなったら、花になるんですか⁇』
『さぁな。そういうものだから』
『誰も疑問には思わないんですか?』
『初めから、自分たちの存在はそのようなものだと思っていれば、不思議には思わないだろう? もしかして、直の世界は種から生まれないのか?』
『た、種⁉︎』
『ああ。子供の欲しい夫婦が神の社で絵馬を書き、祈りが聞き届ければ種が届く。そうして鉢に植えて祈れば、子供が生まれるんだ』
『……此処がぼくの世界と違うことは、よく分かりました』
「異世界の人間は火葬をするって話だったな。私は初めて、上司から聞いたとき、生きたまま、人を焼くなんて異世界の人間とはなんて残酷なんだと思ったものだ」
冗談のつもりで言ったのか、笑いながら話す兄さまの考えの方がよほど怖い。こういうところで彼は『人』の感覚と逸れているように直は感じる。
「まだ、直がこちらの世界にいなかった頃、花に変わった自分の姿を絵に遺して欲しいと言った伯爵家のご令嬢がいたんだよ」
「病気だったんですか?」
「いいや。女性の美の感覚というものは分からないが、当時の少女たちの間で『若く美しいまま、花になりたい』という悪い風潮が流行ってね。その願いを叶えるために少女たちは闇市で売られていた薬を飲んだんだ」
「闇市?」
「直が紛れた祭りは人ならず者だけだ。けれど、闇市は人ならず者と人とが手を取り合い、定期的に場所や品を変えつつも市を行っているんだよ。人の世界では手に入らないものも此処では手に入れられるんだよ」
闇市の管理は、兄さまたちではないらしい。そこはなんでも手に入るが、時には人の手には入らない品を自分の命と交換することもあるという。大抵は偽物であるらしいのだが、時には本物の人の身には扱いが困る品も紛れるらしく、偶に兄さまたちも監査には行くらしいのだが、妖しい物を売る商人ほど隠れるのがうまいという。
「不老不死の薬を欲して、自分の命を堕とすなんて馬鹿げたことだと思うだろう? けれど、あそこはそういうことがまかり通ってしまう場所でもある。薬を欲したご令嬢たちは華族階級の者が多かった。きっと、家の者にでも任せて手に入れたんだろう。このことがご令嬢の両親にでも露見すれば、彼女たちはすぐ結婚させられてしまうだろうから」
人ならず者たちの空間に好んで入った人間がいるなんて信じられないが、少女たちは願いを叶えるための代償を分かっていなかったのだろうか。
「兄さまたちは動かなかったんですか?」
「ここまでは人の範囲だからね。問題はこのあとだ。実際、薬を飲み、花になったご令嬢の希望を叶える為、まだ駆け出しだった画家の青年は、花に変わった彼女を使って一枚の絵を描きあげた。生きていた頃の伯爵令嬢も美しかったが、絵の中に存在している伯爵令嬢は一目みたら忘れられないような艶めかしさすら持っていたそうだ。この少女は黄緑色のドレスを着て椅子に座っていたが、画家が少女の花を使って描いたドレスの色が、翌日には色を失っている。仕方がなく、青年はドレスを塗り直したが、そんな日が何日も続いた。何度も塗り直すことにより、絵具も少なくなっている。さすがにおかしいと思った青年は、絵から声を聞いた。『私、他の色のドレスも着たいわ』絵に取り憑かれてしまったように青年は少女たちを花にし絵具に変えてしまうと、伯爵令嬢が望む通り、ドレスの色を変えていった」
「それって」
「不幸なことに少女たちと画家の青年の思惑が一致してしまったというわけだ。青年の見目も良かったようだし、彼が誘えば少女たちを絵具の材料にするのは簡単だったのだろう。ここで私たちに事件が任されて、現場へ向かえば、青年の姿は既になく、少女の口元にはダリアの花がくわえられていた。これ以上、少女を犠牲にしない為にも絵を封印していて軍部に預けて、この事件は終了したと思っていた。つい最近になって、慌てた様子の軍部から、絵が盗まれたと聞いていたところだったんだ」
兄さまが新聞記事をみせると、そこにはひとりの婦人が椅子に座って微笑んでいる、そんな絵が取り上げられている。絵を見て、直は首を傾げた。
「兄さま。話では『伯爵令嬢』でしたよね」
「成長をしたのだろう。時期もあうしね。そんなわけで私は調査に行くけど、直はどうしたい?」
今は兄さまの管轄下で安全を守られて生活をしているが、いずれ大きくなれば、直は兄さまの元を離れ独り立ちをしたいと思っている。
「もちろん。一緒に行きます」
「私に守られてれば安全なのにね。では行こうか」
自分の心を読んだように、彼はつまらなそうにぼやく。兄さまの格好をみて、はっとした直は彼の寝巻きを引っ張った。
「兄さま! 出かける前に服を着替えてください‼︎」
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