第十一話 うしろの正面、狐の面(四)
翌朝。さすがに兄さまでも気まずかったのか、彼は先に家を出ていた。卓の上には朝ごはんとお弁当が置いてある。彼が直が幼いころ、あえて家事を任せていたのは、『自分はこの場所にいてもいい』ということを、彼なりに示してくれていたのだと知り、情けなくなってしまう。
皿に置かれている綺麗に巻かれた卵焼きを見て、直はあえて形を崩して食べる。未だ、直は巻くことを苦手としてるのに、兄さまが作れば崩れていないことに悔しくなった。朝ごはんを食べ終え食器を洗っていれば、いつの間にか登校する時間になっていた直は慌てて、兄さまの家を出る準備をした。
家から出たのはいいものの、女学校で兄さまに会ったら、どんな顔すれば分からないという思いから、学校とは逆の方向へと向かって歩き出す。職場に行けば、学校に行っていないことにワンコさんたちにも心配をされるだろうと、あてどなく歩いていると見知った姿をみる。
「三郎さん?」
「直さん? 女学校は?」
「あっ。えーと」
直が女学校をサボって歩いていることが分かったのか無表情な顔が少しだけ、笑ったようにみえる。
「な、内緒にしてください。あの、今日は久子さまは?」
「今日は旦那さまにおやすみを頂いている日なので、他の者がお嬢さまの担当なんです」
「おやすみのところ声を掛けて、すいません」
「いいえ」
彼はいいことを思いついたように、直にある提案をしてきた。
「直さん。お暇でしたら、少しだけ、私に付き合ってくれませんか?」
「? はい、ぼくで良ければ」
彼に対する情報収集だと思えば、学校をサボってしまったという罪悪感も薄れるだろう。どうして、三郎が自分に声をかけたのか分からないものの、直は頷く。
三郎の見目がいいせいなのか、彼に視線が集まり、直はつい背が縮こまってしまう。兄さまと歩いている時は、先に兄さまを見てから直を見られる為、微笑ましい目か、同情めいた視線を送られることが多いが、今は女学校の袴姿である為なのか、なんであんな平凡な女と一緒にいるのかという目で見られて辛い。
三郎が直を連れて来た場所はカフェであった。店員に席を案内されて、メニューも見ずに彼は注文をする。
「私が頼んだもので良かったですか?」
「あの、アイスクリンって高価なんじゃ」
一度、夏の暑さに負けて、元の世界と同じ感覚で、兄さまに『アイスクリームが食べたい』とねだったところ、何故か、ワンコさんも伴いカフェに連れて来られた。
兄さまは直のためにアイスクリンを頼んでくれたが、ワンコさんは忙しい時期にも関わらず、仕事の合間をぬって、カフェに連れて来られたのか分からないような顔を始終していた。しかし、珍しい、兄さまの気遣いだと思ったのだろう。会計時までは三人で穏やかな時間を過ごした。会計時になると兄さまは一言も言わず、直を脇に担ぎ、ワンコさんに後はよろしくとだけ言い残し、カフェからとんずらした。
じょじょに怒りの為、真っ赤になっていったワンコさんの顔は忘れ難い。その後、死ぬほど、仕事でこき使われたと兄さまは嘆いていたが、あれは兄さまが悪いと今でも直は思っている。
彼からアイスクリンの代金を支払えと請求をされても、持ち合わせがない為に支払うことが出来ない。顔が青白くなっていく直に、三郎は首を振る。
「ここは誘った私が支払うので気にしないでください。昔、姉さんに私の給金が貯まったら、アイスクリンをごちそうするという約束していたんですが、姉はもういなくなってしまいましたので」
カラン、とコップに入っている氷を鳴らして、三郎は感傷なく告げる。
店員が自分と三郎の分のアイスクリンを持ってくると、直は久しぶりの味に緊張していたことも忘れて、頬が緩んでしまう。
「ぼくとしては美味しいものを食べられて良かったってなりますけど、三郎さんはお姉さんの代わりが、僕で良かったんですか?」
「姉、清子なら自分が亡くなったら『私の代わりに誰かと食べなさいよ!』って言うだろうと思って、誰かと一緒に食べたいと思っていたんです。ただの自己満足にすぎませんが」
「大切な人だったんですね」
「どうでしょう? 血は繋がっていなかったので、あちらは私のことをどう思っていたのか。直さんの学校でも、姉妹のような関係があるようですが、清子にとっては私のことも、そんなごっこ遊びの延長だったのかもしれません」
「その気持ちは分かります。ぼくも考えたことがありますから」
「……誰かと、喧嘩でもしたんですか?」
「ええ、まぁ」
気まずくなって、溶けかけたアイスクリンを口にすると三郎は思い出すように口にする。
「大切な言葉は後悔しないように伝えた方がいいですよ。いくら自分たちが花になって遺せるとは言っても、いざ花を目にすれば相手の気持ちが分からなくなるということもあります」
「分からない、ですか?」
花に姿を変え言葉を遺すことはどうなのか、という口ぶりで三郎は続ける。
「清子もそうですが、両親のこともです。久子さま付きになるまえに、私は火事で両親を亡くしましたが、あれだけ私に興味がなかったふたりなのに、私に遺された言葉はこれからひとりになってしまう私への心配だけでした」
「言いにくいことを聞いてしまってすいません」
「いいえ。私から、お話したことですから」
久子さまの傍にいるときの三郎は棘を纏っているように感じたが、今の三郎には直に対する悪感情を感じない。アイスクリンを食べ終えたあと、ふたりはカフェの前で別れた。
兄さまと三郎のことを考えて、最近は睡眠不足気味になっていた直は陽の光の眩しさに飛び起きると、壁にかけている時計を確認する。まだ目覚まし時計は、この世界にはない。皆、陽の光で起き、夜も深くなれば眠りに就く世界で、昨日の直はつい布団でごろごろしてしまっていた。
「ち、遅刻だ‼︎」
急いで袴に着替え、髪を適当に結くと、走って女学校の校門が閉められてしまうギリギリの時間に滑りこむ。
「きゃっ」
慌てていたためか、直はひとりの小柄の女生徒とぶつかってしまう。バタバタッと本が落ちていく音がすれば、彼女は持っていた本が廊下へと広がっていた。
女生徒がしゃがみこんで本を拾うのと一緒に、直も本を拾いながらも彼女に直は謝る。
「ごめん。前を見てなかった」
「いえ、私も前ばっかりを気にしていたので」
「半分、持っていこうか?」
「大丈夫です。そろそろ、本鈴が鳴りますけど」
平気ですか? と言外に尋ねられて、直は再度、謝って、その場を立ち去ろうとしたが、花の絵柄が描かれた栞が目につき拾う。きっと、あの女生徒が落としてしまったのだろう。呼びかけようにも、女生徒の姿は既に消えていた。
一つ目の鐘の音に、栞を自分の鞄へとしまうと、すました顔をしながらも直は自分の教室へと入った。
昼休み。芳子に誘われた直は、栞の落とし主に関してなにか知ってはいないかと、彼女に栞を見せる。
「芳子さん。この栞に心当たり、ないかな?」
彼女は図書館にいた先生とも親しそうだったし、栞を落とした持ち主について知っているかもしれないと見せたとき、いつもは朗らかな彼女の表情に嫌悪が混ざる。
「芳子さん?」
「あっ、ごめん、ごめん。嫌なこと、思い出しちゃって。まだ流行ってたんだ、それ」
流行ってるという言葉に、直は小首を傾げた。
「私たちは亡くなったら、花になるでしょう? 今、姉妹を契りあっている子たちは、大人になったらお姉さまの前では花にはなれないって分かってるからって、栞に花を描いて渡すのよ」
直にとってはまだ、可愛らしい行為だと思うが、どこかで引っかかる。
「もしかして、前にいた先輩たちの真似をして」
「そうそう。だから、あんまり、いいイメージが私は持てなくて。キヨも久子さまに、作ってくれないかってお願いされてたけど」
キヨさんとは仲が悪いんじゃなかったのかと考えていると、彼女はゆっくりと口を開いた。
「あっ、キヨとは仲が悪かったんじゃないかって思った?」
「そ、そんなこと」
「ふふふ。直さんはキヨとは違って、顔に出やすいんだな。いくら、そっくりでも、やっぱりあなたはキヨとは別人だ。キヨとは学校ではわざと喧嘩をして絶交したって演技をしてたんだよね。久子さまに絡まれても困るし」
えくぼを作ると芳子はキヨのことについて改めて、話してくれる。キヨと芳子が表向き、仲違いをしていた振りをしていたのは、久子に理由があったそうだ。
「いくら私が彼女に『キヨとは親友以上の仲ではありません』って言っても信じて貰えなかったんだよね。恋する女が怖いってこういうことかと思ったよ」
久子の嫉妬が災いして、芳子の父の事業が立ち行かなくなったり、自分には勿体ないと思う縁談話まで家に持ちこまれたということが、度々、あったという。そのたびにキヨが久子に頭を下げて、どうにかしていたらしいのたが、久子からすれば憎い恋敵を、とっとと目の前から追い出したかっだのだろうと芳子は口にした。
久子のことで、自分よりもげっそりとした表情を浮かべ疲れている様子のキヨに対して、芳子は絶交の振りをする提案をしたらしい。
「『私達、別れよう?』って言ったときのキヨの顔は見ものだったな。『いや。そもそもあんたとは、つきあってないよね?』ってすぐに突っこんできてくれたし」
「キヨさんってどんな人だったんですか?」
何人かに話は聞いているものの、未だ、『キヨ』という人が直にはどんな人なのかが、浮かびあがってはこない。
「『万華鏡』みたいな子。どんな相手でも、キヨは合わせられるから、一緒にいる相手はキヨ依存になっちゃうんだよね。キヨもお家の方から、久子さまとは仲良くしろって言われたから、妹の振りをしてるけど、本当は彼女から逃げたいって話してた」
「どうして、ぼくにキヨさんの話を?」
久子はキヨとの仲を誰にもいうつもりではなかったんだろう。それでも、直にキヨとのことを話した。
「私も誰かに言いたかったんだよね。本当は、まだキヨと仲良しだよって。キヨもさ、久子さまに話すべきだったんだ。『自分には大切な人がいます』って」
「キヨさんには芳子さんの他に仲良くしてる人がいたんですか?」
「みたいだよ。花の栞を見て嫌だなって思うのは、キヨが大切な人に会えるって嬉しそうにしていたことを、思い出すのもあるんだよね。もしかしたら、その人がキヨがいなくなったことに関係してるのかなって」
「キヨさんから、聞いてたんですか?」
「私にしか話せなかったんだろうね。図書館に学園史があるのは知ってる? そこに入れた本の栞で連絡をとり合ってたみたい。『死ぬときにはね、この花になりたいんだ』って見せられたから覚えてる。ろくでもないこと言うなって大喧嘩して」
そのあとにキヨはいなくなり、芳子とも仲直りが出来なかったのだろう。聞くことの残酷さを知りつつ、直は芳子に問いかけた。
「その花、覚えてますか?」
「えっと、なんだったかな。あっ、そうだ。『勿忘草』だ。直さん?」
「す、すいません、芳子さん! このあとの授業は欠席すると先生に言っておいてくれませんか?」
「う、うん、分かった」
芳子は直の勢いに頷く。彼女と別れると、直は十二階に足早に向かった。
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