古池の千翼魚2
千籠は、隅っこのあまり人の来ないようなところに荷車を止めた。
千籠が荷車から藁の敷物を取り出そうと手を伸ばした時、隣に野菜を並べた店を構えている腰の曲がった老爺が、店から顔を覗かせてきた。
「おまえさん、またこんな隅っこで干し魚売るのか」
老爺のしわがれた低い声が、前歯が抜けているせいで余計に聞きづらい。
「いつものことだろ」
千籠は、薄く笑って答えた。
「おまえんとこの死んだおとっつぁんも、いつも此処に店を構えて、こんな隅っこじゃ立ち寄る人もいやしねぇって、あれほど言ったのによ、毎日毎日ご苦労なこって」
老爺は、いつも不思議に思った。
この目の前にいる若い男も、その亡き父も、毎日ここで売っているが、客が来たところなんてめったに見ないからだ。それでも老爺が聞くと、いつも笑って同じことを言う。いつものことだろ、と。
老爺も、いつもの事なので、そうかや、と言って店の中に戻って行った。
千籠が干し魚を売る準備をし終え、やつれて所々穴の空いた敷物に胡坐をかいて座っていると、一人の着物を着た女がやって来た。
女はそっと店に近づくと、干し魚が並んでいる敷物の前に、着物に折り目がつかないように、着物を押さえながら、ゆっくり座った。
市女笠を目深にかぶっており、顔の部分は、真っ赤な紅をぬったうすい唇しか見えない。
漆黒の着物に、肩の所から流れた水のように光をうつす黒髪。
「汝はここで何を売っているのか」
女は、かすかに口許を動かして千籠に問うた。
静寂な夜の空に響いて消える、鈴の音のような小さな綺麗な声だった。
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