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2024年3月24日

 俺たちは一湾(はじめわん)水族館へと並ぶ海沿いの行列に並んでいた。水平線の向こうに上がるカンカン照りの太陽が俺たちの肌を焼く。一湾水族館が人気だということは知っていたがまさかこんな外にまで行列が続いているとは。俺の後ろに並ぶ和貴(かずき)の額に大きな汗の粒が流れる。俺は観光先として一湾水族館を選んだことをすでに後悔し始めていた。


「なあ、和貴。こんなに並ぶなら別のところにいかないか? ただの水族館だぜ」

「バカ、今並ぶのをやめたら今まで並んだ時間が無駄になるだろ。俺は絶対に行くからな!」


 水族館の方を見つめたまま和貴は言う。それはただのコンコルド効果で、ギャンブルなら損する思考だなと思ったが、口には出さない。この目をしている時の和貴には何を言っても無駄だ。和貴は良く言えば負けず嫌いである。彼とはたまにサウナに行くが、俺より先にサウナから出てきたことは1度もない。勝負事モードに入った和貴は例え自らの命が危機に瀕しようと、諦めることは無い。こういうタイプが後に意外と大成するのではないか?と時々思うこともある。それにコンコルド効果なんて言われても、和貴はきっと知りもしないだろう。彼の熱意が勉強や知識に向けられたことは1度もないのだ。和貴は悪く言えば、バカだ。

 俺は「わかったよ」と言うと、一湾に目をやる。空には雲ひとつなく、見ていて気持ちの良い快晴だ。風も穏やかで水面は静かに凪いでいる。夏の暑さに目を瞑ればこれほどいい天気もない。

 進まない列の中で海を見ていると、様子が少しおかしいことに気付いた。湾の方に何やら気泡がボコボコと上がっている。気泡のサイズはここからでもハッキリ見えるほど大きなサイズだ。もしこの気泡の原因が生物の呼吸だとしたら、クジラでも海底に潜んでいるのだろうか……?

 最初はポコポコと上がっていた気泡のペースはどんどん早くなっていき、「何か」がどんどん海面に近づいているのを感じる。気泡が絶え間なく溢れた後、大きな波を起こしながら「それ」は水中から体を現した。「それ」はとても巨大な体躯をしており、その頭は南に高く上がっていた太陽をすっかりと隠してしまう。「それ」の頭は茶色の毛に身を包んだゴールデンレトリバーそのものであり、上半身は人型だが、頭部と同じ色の体毛に包まれていた。下半身は海の中で見えない。海の中に潜んでいたのは、海獣ではなく巨大な犬頭の怪獣だったのだ。

 列に並ぶ人達は、列を崩さないまま犬の怪獣を見ていた。俺も突然の事に体が動かず、巨大な犬の顔を見ながら思う。「ああ…まさか俺が怪獣に会うなんて…最悪だ」と。和貴は水族館の方を見ており、怪獣には気付かない。


「俺の名前はワンワン戦士(せんし)


 怪獣はこちらを見て喋り始める。その声は体躯に似合った重低音で、一音を放つ度海が震える。ワンワン戦士……見た目通りと言えば見た目通りの名前だ。


「俺はこのふざけた地名が許せん」


 俺はそれを聞いてワンワン戦士の方がふざけている名前だろうと思い首をひねったが、少し考えて意味は分かった。「一湾」の一を英語で読めばOneだ。つまりこの「一湾はじめわん」は「One湾わんわん」になるということだろう。ワンワン戦士にとって、この湾に自分の名前が使われていることが許せなかったのか。くだらないダジャレにしか思えなかったが、ワンワン戦士の顔は真剣そのものだった。


「そして俺はこのふざけた地名を付けた人間たちも許せない……。だが、何のチャンスも与えずにお前たちを皆殺しにするのは俺の仁義(じんぎ)に反する。そこで、お前たちの中から3人をランダムで選び、勝負の結果で貴様らをどうするか決めることにした」


 ワンワン戦士の思考は全く理解できたものではないが、戦士らしく道を重視するところもあるらしい。一応、きちんと試合をしようとしている。しかし、ワンワン戦士は人など簡単に握りつぶせる体躯をしている。人間が何人束になってかかろうと文字通り秒殺だろう。これでは一湾の人類を皆殺しにする宣言をしているのとなんら変わらない。


「勝負の方法はクイズ対決だ。」


 しかし、意外にもワンワン戦士が提案したのは頭脳勝負だった。クイズ対決ならばむしろ怪獣よりも人間の方が有利ではないだろうか。頭は犬だし(人語を流ちょうに喋っているので知能は人並みのようだが)。

「もし俺がクイズ対決に勝てば、一湾線の駅周辺にいる人

間たちの人生は終わりだ」


 一湾線は、「一湾駅」を終点とした市営地下鉄の路線である。ワンワン戦士は余程一湾という名前が気に食わないのであろう。一湾どころか一湾の名前が付く路線まで終わらせる気だ。俺はただ水族館を見に行きたかっただけなのに、こうなってしまえばもはや水族館どころの話では無い。生きて帰れるのか、いやそれどころか街は、日本は、人類はどうなってしまうのだろうか。和貴は列が進まない事にイライラして舌打ちをした。


「そして俺とクイズ対決をする相手に選ばれたのは……この3人だ。」


 そう言うとワンワン戦士が指パッチンをする。巨体に似つかわしい爆音だ。すると、ワンワン戦士の後ろにスクリーンでもあるかのように3人の顔が浮かび上がる。恐らくこの列に並んでいる人間の顔だろう。証明写真のようなバストアップの正面顔だ。映し出された3人はメガネをかけた知的そうな中年男性と育ちの良さが垣間見える若い女性、そして……和貴だ。

 それを見た瞬間、俺は全力で走って逃げだした。列に並ぶほかの人たちはみな、怪獣の方を見て突っ立ったままだ。呆気に取られているのか、恐怖で動けないのか、ショーとでも思っているのか、それともクイズ対決に勝機を見出しているだろうか……。逃げ出したのは俺一人だったが、そんなことは気にも留めなかった。今ある思いは生き残るということだけ。全力で駆ける。和貴がクイズ対決で勝てるわけが無い。和貴は自分に興味のあること以外は何一つ知らない。一湾線は終わったんだ。俺はとにかく一湾線から離れるために、一湾駅に向かう。一湾駅は行列から歩いて10分ぐらいのところにある。怪獣騒ぎなど露知らず一湾水族館に向かう人の群れを掻き分け、俺は急いで一湾駅と併設されたショッピングモールの入口に入る。

 ショッピングモールに入ると俺はすぐ左手にある階段を降り、地下鉄一湾駅に到着した。急いで路線図と時刻表を確認する。俺は地元民では無いのでこの街の地下鉄のことには詳しくない。とにかく最速で一湾線から乗り換えて別の路線に移動しよう。そう思って路線図を見た俺は、思わず膝をついた。一湾線は路線図上に長い1本線を引いており、他の路線に交わるまでには15駅かかる。1駅間の時間が仮に2分だとしても、別の路線に乗り換えられるのは30分後だ。さらに時刻表を見ると一湾線から次の電車が出るのは10分後。そう、一湾線から離れられるのに最速で40分かかる。40分という時間は1時間番組からCMを除いた時間に等しい。どのような形式でクイズ対決が行われているのかは知らないが、3人とワンワン戦士のクイズ対決が終わるのには十分すぎる時間だ。


 俺は膝を着いたまましばらく呼吸を整え、立ち上がった。悪く考えすぎるな。クイズ対決に選ばれたのは和貴だけではない。3人もいるんだ。ルールは知らないが、和貴が負けてもほかの2人が勝てば勝ち越しになる。写真を見た印象だと、和貴以外の2人は知的な雰囲気を漂わせていた。もし2勝先取の3本勝負なら、和貴の番が来る前にワンワン戦士に勝つかもしれない。いくらなんでも見切りをつけるには早すぎるだろ。幸い電車が来るまで10分ある。1度外の様子を見よう。そう思い俺はゆっくりと階段を上がる。ショッピングモールの中の人々は怪獣が現れたことに気付いてもいない。若い夫婦が2人の子供を連れて笑顔でフードコートに入っていく。それは、平和な景色だった。ワンワン戦士はもうとっくにクイズに負けて、もう平和な日常が戻っているかもしれない。そんな気さえしてきた。

 そして俺はショッピングモールを出た。外の世界は静かだった。景色はほとんど変わっていなかったが、一つだけおかしいことがある。街の人がみな、その場で立ち止まっているのだ。しかも皆は俺が走って来た方……つまり一湾水族館の方を見ている。怪獣に気付いたのだろうか。駅から出た俺からすれば背を向けてられている状態なので、みんなの表情は見えない。俺は目の前で立ち止まっている女性らしき後ろ姿の正面に周った。どんな表情をしているのかも気になるし、今どうなっているのかも聞いておきたい。そうして彼女の顔を見た時、俺は愕然とした。いや、正確には「彼女の顔があるはずの所を見た時」だ。

 彼女の顔があるはずの場所には丸い標識のようなものが張り付いていた。白い背景に青い丸、そして真ん中には碇のようなマークが描かれている。その青い丸の上にはこう書かれている。「市営 一湾線」と。それは市営地下鉄一湾線の駅のシンボルマークだったのだ。周りを見返すと他の人たちも全員顔に一湾線のシンボルが貼られたまま動かない。その時俺は理解してしまった。ああ、クイズ対決はワンワン戦士が勝ったのだ、と。ではなぜ俺は無事なのか。ワンワン戦士はあの時確かに言っていた。


「もし俺がクイズ対決に勝てば、一湾線の()()()()()()()()たちの人生は終わりだ」


 そう、一湾線の駅の周辺にいる人間の人生は終わったのだ。顔に一湾線のシンボルを貼り付けられて。そして、すべてが終わった時に一湾駅の中にいた人間は助かったのだ。果たして顔を一湾線のシンボルに替えられた彼らは生きているのだろうか、死んでいるのだろうか。意識はあるのだろうか、無いのだろうか。俺には分からない。ただ1つ分かるのは、彼らはもう二度と動くことはできないのだろう、それだけだ。和貴もきっと同じように、顔面一湾線人間になってしまったのだろう。終わってしまった街で、脱力感に包まれた俺はゆっくりと倒れこむ。空は、雲一つなく晴れていた。

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