お猫様
外はどれほど綺麗でしょう。そう言う貴方は随分と自分の境遇を嘆いていて、つまらないことばかり考えています。
意味もなく城内を歩きまわる。阿呆だな、と曇った頭で思う。
来る日も来る日もこの繰り返し。きっとお殿様はもう私のことなど覚えていないんだ。私のことを無視しつづけて。興味がないんだ。そう思うと、じわりと目の前が滲む。ああ、もう嫌だ。先には進めない。後に戻ることなどできそうにない。私はただ壊れた絡繰りのように、毎日毎日意味のないことをし続けている。気が滅入ってしまう。
使用人の仕事を手伝うのはどうか、そう思ったときもあった。でも、私はそこまで堕ちたくなかった。妻としてここへやってきたのに、していることは使用人など、私のちっぽけな矜持が許さなかった。惨めだった。
ふらふら。ふらふら。
女として、いや、人間として恥ずかしい。空虚で、罪悪感で、羞恥心で、床にめり込みそう。きっと、みんな呆れている。何もしない、穀潰し。そう言われているに違いない。
この大きくて息苦しい籠の中で、私は人生を終えるまで過ごすんだ。
そのことに気がつくと、途端に泣き喚きたい気分になった。
嫌だ!嫌だ!誰か助けてくれ。私は何もしていないのにこんな地獄に閉じ込められるなんて、ひどい。お殿様は私をそこら辺にある置物と同等に思っているから、どこかに連れて行ってくれるなんてこと、してくれるわけない。私は一生、亡霊みたいにこの城をさまよい続けるんだ。
誰も見てくれない、気にしてくれない。お願い、私を見て。私はキュウリが好きで、菜の花が嫌い。黒よりも白が好き。知ってほしくて―。
むなしい。
一人でああだこうだと考えたってしょうがないじゃないか。私ったら本当に馬鹿だ。一人で勝手に悩んで結論を見つけた気になって。他人から見たらこれのどれほど滑稽なことか。
もう、駄目だ。そうだ、もう終わり!私は終わったんだ!
そう考え始めたら、変な元気が出てきた。
あはは、何だっていいじゃないか。首でもくくってみたら。襖に向かって逆立ちをしてみようか。きっと皆驚く。驚いて、慄く。殿の嫁は、なんておかしな奴なのだろう。狂っている。頭がおかしい。何かに憑かれているに違いない。殿も殿だ。あんな女と結婚するなんて。
ざまあみろ。私を放っておくからだ。
はは、いいな。気分がいい。
にやにや笑いながら、厨の前を通ろうとした、そのときだ。
なーう。
猫の声だ。思わず立ち止まって、鳴き声がした厨を覗き見る。
黒ぶちで、金の目。よくいる猫だと思った。
「なー」
周りを見渡す。私と猫以外誰もいない。
厨に入るなんて、私のすることではないかもしれないが…まあ、でも猫を愛でるためだったら、別にいいんじゃないだろうか。言い訳がましい。また自分の嫌なところが増えた。
謎の考えで自分を丸め込んだ私は、袴の裾を手でつまみ上げて、そこら辺にあった草履に足を入れ、厨に入った。
猫は近づいてくる私を全く気にせず、毛繕いをしている。いいな。私も猫のように、周りのことなど気にしない、堂々とした心を持ちたい。
猫がちらとこちらを見る。どっしりとしている佇まいに、思わず私は目を瞬かせた。強い。こいつは大物だ。本能でそう悟った。いや、猫ぐらいに何を大げさな、と思うかもしれないけど、確かに強者に違いない佇まいなんだ。これはもう逆らっちゃいけない。私みたいな奴なら尚更。
「…お猫様」
失礼に当たらないように、背筋を伸ばし、あまりじろじろ見ないよう目を伏せ、丁寧な言葉遣いを心がける。もしこの光景を見た人がいるなら、滑稽だと感じるだろう。でも、私は真面目を過ぎるほど、大真面目だ。ふん、笑うなら笑えばいいよ。私は自分が敬いたいと思った心に、固定観念に囚われず従っただけだ。
お猫様をこっそり伺い見ると、私のことなど眼中にない、というふうにまだ毛繕いを続けている。
無視、というのは今の私にかなり堪えるはずなのだが、不思議とそれは居心地良く感じられた。
何をしてもいい、という許容。呆れと好奇、嫌悪のない瞳。穏やかな雰囲気。
あ、いいな。この空間。
視界がじわりと滲んでいく。自分が泣いているということに、驚いた。そうか、私は思った以上に限界だったんだな。
ぽたりぽたりと雨が地面を埋めていくように、私の涙も地べたを埋めていく。
知られたくない、嫌なところばかり見られて、知ってほしいところは誰も見てくれない。あんまりだ。あんまりじゃないか!
情けない呻き声をもらしながら泣いても、お猫様は放っといてくれた。
はらはらと雪が降っています。綺麗ですね。貴方もそう思えるようになりましたか。
今日もお猫様はいるだろうか。
左手にお猫様のために取り分けた食事を持ちながら考える。きっといるだろう。あれからいなかった日はないのだから。いなかったらどうしよう、という不安を必死に抑え込んだ。
冷気を含んだ風が頬と首を撫ぜた。生理的に体が身震いしてしまう。
前は気にならなかったが、今は真冬で、とても寒い。人間だが、冬眠したくなる。
そういえば、猫は冬眠は…しないか。
右手で握っては開くを繰りかえす。うん、少し温まってきた気がする。
「お猫様」
厨に降りて、すり寄ってくるお猫様を踏まぬよう気をつけながら、お猫様が食べやすいように下に置く。
袴にすり寄るようになったのは、食事を持ってくるようになってからだ。現金なところも、また好ましく思う。私は彼女のすることならなんでもいいのだ。
「なう」
「美味しいですか」
多分、美味しいと感じてると思う。確信ができるほどお猫様のことを知っていないから、こんな言い方になってしまうけど。
泥水の中に押し込められているような、息が出来ない空間から唯一脱け出せる、場所。多分、私はここに依存している。
依存は、いいことではないと言う。どうだろう。私は幸せだ。負担になるから、いいことではないと言うのなら、大丈夫。私はむしろ助かっているのだから、依存じゃない。
じゃあ、これはなんだろう。癒し、安息、安心、自己の確定、安定。これらを全て合わせて、綺麗な布に包んで、差し出された状態が、これを表す一番的確な表現だ。
つまり、分類ができない、色々な物が混ざり合った不思議なものなのだ。
くだらないことを考え込んでいるうちに、お猫様が食べ終わったようだ。厨から尻尾を揺らしながら出ていく。
「あ、もう行くのですね。いってらっしゃい」
猫はすぐどこかに行ってしまう。そういう生き物なのだと、昔母様に教えてもらった。
気まぐれ。もしくは相手のことなど気にしない、合理主義。素敵だ。
空になった器を回収し、来た道を戻る。
寒い、寒いなあ。私は都人じゃないから冬の良さとやらが分からない。まあ、確かに雪は綺麗かもしれないが、それだけだ。あとはただただ寒い。この寒さを越えられるかで、生き物の存続は決まるのだと思う。そういう意味では感慨深く…ならないな。その生き物のうちに自分も入っているんだから。
衣擦れの音。
はっと顔をあげると、侍女が廊下の反対側から歩いてきていた。
いつもなら私はつんけんとした態度をとる。私の方が偉いのだと、一生懸命になるのだ。私は役立たずなんかじゃない。お前より凄くて、将来有望なんだぞと。必死にそう喚くのだ。
でも、そんな虚勢も今はどうでもよくなってしまった。
楽に、明るく、気分良く。素直に生きたいんだろう。
彼女の方が余程よく働いているし、偉いじゃないか。
素直に、素直に。
強張る口を無理矢理こじ開ける。
「いつも、世話を、かけてますね」
違う。こういうことを言いたいんじゃない。こんな上からなことを言いたいんじゃない。貴方は立派なのだと、凄いのだと、伝えたいのに。
面倒な、意固地だらけの矜持が私の素直な思いを邪魔してくる。
「あ、違、その」
貴方は、私より余程真っ当で、素敵なんです。そう言いたい。
握った手に汗が滲む。どうしよう。ぐるぐると視界が回るような気がする。
ふと彼女の瞳を見た。私を見定めようとする、恐ろしい目。
背筋に釘を打ちつけられたような、鋭い痛みが走った。
やめて、そんな目で見ないで。この目で見られると、汗ばかりがだらだらと流れて、私は固まって動けなくなる。
何もできない。うずくまって、更に醜態を晒すしかなくなる。
私を見下し、嘲笑い、呆れる無数の目、目、目。逃れたくて、逃れたくてしょうがなくなる。
怖いんだ。見極められたくないんだ。私の意気地なしなところばかり皆じろじろと眺めるんだ。
やめてよ。お願いだから。
私は情けなくて、醜くて、嫌な奴なのだと、紙に書かれて背中に貼りつけられている気分だ。
誰か、助けて。
なー。
とうとう幻聴まで聞こえ始めた。が、その幻聴は私の蜘蛛の糸となった。
前を向け。堂々と、この場の空気を掴んでしまえ。
そう、鼓舞された気がした。
素直、そう素直だ。
「話をしたいの」
お猫様はきっと私にそんなこと思っていない。でも、いいじゃないか。思いこませてもらっても。自分を奮い立たせるための存在として、偶像として、今だけは。力を。
「私、よくここのことを知らなくて、色々なこと教えてくれると嬉しいんだけど」
「…ええ、ええ。そうですね。清様は最近ここへ来たばかりですからね」
笑って頷く彼女に、心中でほっと息をつく。うん、やればできる。よくやったぞ私。
侍女がこの近くに咲く見事な梅について喋り始める。その姿はとても楽しそうだ。驚いた。知らなかったんだ。彼女がこんなにお喋りだなんて。
いや、知ろうとしなかったんだ。
寒い冬が終われば、暖かい春が来る。きっとそれは私にも与えられた権利なのだ。
頬が緩む。
今の私なら冬を越せそうな気がした。