「コッホ先生と僕らの革命」(映画)
監督セバスチャン・グロブラー
19世紀末、ドイツでは強烈な反英感情が高まる中、イギリスで生まれたサッカーを教育の現場に取り入れた教師コンラート・コッホ。しかしコッホの型破りなやり方は、多くの敵を作ることなる。自らを犠牲にしてまで真の教育を授けようとする教師と、心を閉ざして生きていた少年たちの成長を描く感動のヒューマンストーリー。(C)2011 DEUTSCHFILM / CUCKOO CLOCK ENTERTAINMENT / SENATOR FILM PRODUKTION
見ている間はとても引き込まれる映画。けれど終わってから、いろいろ考えてしまう。子どもの教育って本当に大変。
面白いことなど何一つないかのような学校の授業にひたすら服従的に従ってきた子どもたちに、コッホ先生はサッカーを通じて、フェアプレイと仲間意識という英国から持ち帰った、リベラルな思想を教えていく。
子どもらは、サッカーという魅力的なゲームに夢中になるのだけど――。
これが、テレビゲームだったら、と現代に置き換えて考えたとき、先生や子どもらに共感して、親として受け入れることができるだろうか。
仮想空間のなかで、パーティーを組み、助け合って目的(宝物を得たり、敵を倒したり)に向かって進み、達成する。そうやって、仲間意識を育み、フェアプレイや関係性のルールを学んでいきましょう、と言われたら。
やっぱりこの映画の親のように、ゲームの持つ快楽性によって子どもを惹きつけ、夢中にさせることのもつ弊害もまた、考えてしまうのではないだろうか。
そしてもう一つのテーマ。エディプス・コンプレックスの問題。コッホ先生と父親の問題。「服従するな」と言うコッホ先生は、亡くなってしまった父親への葛藤を未だ処理できていないように見える。
後援会会長の息子と父親の関係性に、自分を重ねていたのではないか。あるいは全ての生徒たちに。それは単純に投影同一化というのではなく、時代精神の転換期に現れる大きな波の一つだったのかもしれないが。
そうはいっても、子どもたち一人一人が成長していく姿はよく描けていて、胸がすく。特に、体育用具の会社の子。当初の侮辱され、押し潰されたような姿から、どうやって自信を回復し、自分の良い面を前面に出していけるようになるまで。
男の子の父を乗り越える過程は、荒っぽい。この攻撃性をどうやって収めていくかが、これからの問題なのだろうか。それとも、これを利用して、人生に有利になるように用いていくんだよ、というのが西洋式なのか。
ジェントルマン・シップは紳士という皮を、本来の攻撃性に被せることなのかな、と思ったり。




