「マルクス・エンゲルス」(映画)
監督ラウル・ペック
26歳のカール・マルクスは、その過激な言動により妻と共にドイツ政府から国を追われる。1844年、彼はパリで若きフリードリヒ・エンゲルスに出会う。マンチェスターの紡績工場のオーナーの子息であった彼は、イギリスのプロレタリアート(労働階級)について研究中の身であった。しかし階級も生まれも違うエンゲルスとの運命の出会いは、マルクスが構築しつつあった新世界のビジョンの、最後のピースをもたらすことになる。マルクスとエンゲルスはやがて、政治的暴動や動乱をかいくぐって、まったく新しい労働運動の誕生を牽引してゆく。(C)AGATE FILMS & CIE -VELVET FILM-ROHFILM-ARTEMIS PRODUCTIONS-FRANCE 3 CINEMA-JOUROR-2016
「モンテスキュー曰く、二つの腐敗」
・法を守らぬ人民
・人民を堕落させる法
「罰を受けてもそれが罪だと認識することはない」
「認識させるには恐怖を与えるよう罰するしかない。復讐されるからだ」
無政府主義者プルドンの、街頭演説の言い分。
「自由・平等・安全は、干渉し合うことなく補強し合うもの。それこそ社会的自然権だ。その一方“所有”は必ずや、他者の自由・平等・安全を侵害する反社会的自然権なのだ」
マルクスはこれを言葉遊びのイメージにすぎないと言う。
仲間内で現実的でない、理論的でない者を断罪するマルクス。
「批判は、存在する者すべてを貪り尽くす。そして何もなくなると、自らを喰らう」と言い返される。
この場合、理論の正しさは問題じゃない。
このマルクスの苛立ち、解る。けっこう、自分自身の姿を見るようで。だから彼は孤立することになるんだよな。けれど、だからこそ、彼は自分自身の信じるところを貫いていけるのか、とも思うし。
何かを成し遂げたいと思う人間が、輪を持って貴しとなすような、政治的な手腕を発揮することができるだろうか。彼は思想家であって、政治家ではない。
けれど、経済理論には人間心理は加味されていないのだから、それが実生活の上で実現されることもまた、ないのだろう。
映画は、「共産党宣言」が出版されるまでの日々。