「リプリー」(映画)
監督アンソニー・ミンゲラ
トム・リプリーは、ある富豪からイタリアに行った息子ディッキーを連れ戻す仕事を引き受ける。イタリアで彼が出会ったのは退廃的な生活を送るディッキー。きらびやかな毎日、美しい恋人…トムは手の届かない甘い生活を享受する彼に憧れのまなざしを向ける。しかし、自分にまとわりつくトムを疎ましく思い出したディッキーは…。Eirin Approved (C)1999Paramount Pictures Corporation and Miramax Film Corp.All Rights Reserved.
「太陽がいっぱい」のリメイク版。ラカンの鏡像段階の症例として紹介されていたので。見つけた動画、音がない! 金持ちのぼんぼんがかっこよくて、彼が殺されるまでだけ見ました。
「太陽がいっぱい」は、この二人の関係性はもっと従属的で屈辱的な印象が残っているんだけど、こっちはもっと対等――、ではないけれどディッキーもトムと親し気な感じ。解説みると、トムはゲイでディッキーは潜在的なゲイで、彼はその事実を受け入れられず、その事実を突きつけてきたトムに憎悪を向けることになる。らしい。ちゃんとセリフ付きで観たい。
明るくて垢ぬけていて、外見も秀でたディッキーに対するトムの憧れや恋心はとても自然。鏡像同一化の病的なものとは違う気がする。トムのディッキーへの欲求が出逢いからどう変わっていったのか、ディッキー自身のトムへの感情はどんなものだったのか。
ディッキーは本当に太陽みたいなまぶしい象徴で、トムの野暮ったさや素朴さが強調されるばかりで、殺されるのも、そういう釣り合わない人間をまともに相手にするから……、と互いの個人的な諍いというよりも、格差間の相容れなさの導く当然の帰結みたいで。
もしディッキーが自分がゲイであると受け入れることができたとしても、この二人、上手くはいかなかったんじゃないかと思う。
この格差の壁を超えるって、何が必要なんだろう。知性と成熟した人格か。「ダウントン・アビー」では、そういう描き方だった。そしてお互いの歩み寄り。
ひたすら遊び回っている自分に満足しているように見えるディッキーにとって、それまでの友人たちとは違う階層から来たトムは、どんな存在だったんだろう?
そして、ディッキーを殺した後のトムの心理はどう移り変わっていくのか、ちょっと知りたいな、と思った。