「モリーズ・ゲーム」(映画)
監督アーロン・ソーキン
モーグルのオリンピック候補だったモリー・ブルームは、選考をかけた大会で怪我を負い、アスリートの道を諦める。そんな中、勤めていた会社のボスから、アンダーグラウンドなポーカー・ゲームのアシスタントを頼まれる。そこでは、ハリウッドスターや大企業の経営者らが法外な賭け金でポーカーに講じていた。やがて、彼女はその才覚で26歳にして自分のゲームルームを開設するのだが、10年後FBIにより逮捕される。モリーを担当した弁護士は打合せを重ねるうちに、彼女がタブロイド紙に書きたてられるような人物でないことを知るのだが-─。© 2017 MG’s Game, Inc. ALL RIGHTS RESERVED.
子ども(あーこさん)と一緒に。この粗筋に彼女が好きそうな要素がつまっていたから。うちに来るたびに一緒に映画を観る。選んだ映画は、これまでほぼハズレなし。「フォーカス」くらいか。
テレビでやってた「カイジ」も、ハズレだった。私は、どこが気に入らないか考えるのが楽しいので、反面教師的な面白さがあったけれど。
今回一緒に観た映画で、これはかなり彼女にツボった映画。「アスリート」「ギャンブル」「カジノ」と、好きそうなキーワードが揃っている。そこから構成されるかっこいい女性。そういうのが彼女の好み。
観賞の仕方は二通り。実在の人物の伝記的な物語なので、事実をベースにしたフィクションとして、そのまま楽しむ。あるいは、自伝の映画化として、本人擁護の都合良く脚色された人生として、隠蔽されている要素を想像して楽しむ。真実はどうであれ判らないものなので、これもあくまでフィクションとして。
親元を離れてからのモリ―、ポーカーの賭場オーナーになっていくのだけど、ともかく私生活が見えない。職場としての賭場以外での人間関係が一切描かれてない。それは彼女の自伝に書かれていないからだろうな。かかわってきた顧客の私生活を守ること。それが彼女のポリシーで、犯罪者として摘発されてからも一貫して貫かれる。だから映画からの印象としてのクリーンな強い女性としてのモリ―像は、かなり信じられない。顧客の私生活=自分の私生活ではないのかと疑ってしまうから。
彼女は自分の内側を見せることなく、麻薬に溺れていく。その姿もまた言葉での説明だけで、場面としては描かれていない。
そのくせ顧客とのメールのやりとりはしっかり保管してあって、開示を拒むけれど、結局はそれによって実刑を逃れることができたのではと思わせる結末。ロシアマフィアとのつながりや、麻薬、被害者としての彼女の描き方には、ちょっと無理があるように思える。
父親が心理学者のモリ―。終盤で父との葛藤をフロイト的に読み解いている。父との和解のシーン、3分間セラピーは、人間味を欠いた描かれ方をされている彼女の情感を揺さぶる感動場面だった。
「権威ある男性を支配する」ためにカジノオーナーになったと読み解く父。その一連の過程は、自分に対する復讐だと。
「弟たちのように愛されたかった」と言うモリ―。
この父との関係性を解くとき見えてくるのは、何よりも侵襲を拒む彼女の姿だ。本人は、抑圧的な父への反抗だと思っているにしろ。
父親との精神分析的なやりとりを解説しながら――。
子ども(モリ―)が犯罪者になったのに、「いい仕事(子育て)をした」という父親の言葉が判らないというあーこさん。
この父親はフロイト派の心理学者なんだろうな。前半でそれを匂わすやりとりがある。
精神分析はものごとの善し悪し、道徳を教えるためのものじゃない。自分の人生を自分で選び取る自我を確立することが目的。
彼の子どもたちはみな、自分で自分の人生を選び、自分の力で築きあげていった。だから彼は、自分の子育てはいい仕事だったと言えるんじゃないか。子どもたちが生の過程で、ときに悪を成そうが、失敗しようが、「小枝につまづいて転倒しよう」が、自分で受けとめ歩み続けていくなら、それは成功なんだよ。だからこそ父親は、モリ―が本当に大変な今、助けにきた。彼女の困難に対して、その行動の本当の意味を教えに来た。
反抗や攻撃性を受けとめる対象になることで愛を示す、そんな愛の形を、あーこさんはよく判らないと言ってました。




