「ファイト・クラブ」(映画)
デイビッド・フィンチャー監督
常識を、価値観を破壊するエンターテイメントの傑作!
映画の言葉“人生の持ち時間はいつかゼロになる"
不眠症に悩む若きエリートのジャック。彼の空虚な生活は、謎の男タイラーと出会ってから一変する。自宅が火事になり、焼け出されたジャックはタイラーの家へ居候することに。「お互いに殴り合う」というファイトにはまっていく二人のもとに、ファイト目当ての男たちが集いあうようになる。そして秘密組織“ファイト・クラブ"がつくられた!
かなり面白くて、もう一回観たい。
すごく、今にマッチした映画。20数年前のものだけど。
「苦しみと犠牲が尊いんだ!」
「痛みから逃げるな」「人生最高の瞬間を味わえ!」
「子にとって父親は神。神である父親が子を捨てる? よく聞け。きみは神に好かれていない。父親に憎まれている子どもだ。神が何だ? 天罰? 救い? おれたちは神の望まぬ子なのさ! 」
「いつか死ぬってことを心に叩きこめ!」
「すべてを失って真の自由を得る」
とてもフロイト的。男性原理の物語。リビドーを超自我の検閲、抑圧によってコントロールするんじゃなくて、父性原理を否定して解き放つ。
去勢された状態からの脱却する手段としての暴力。邪魔する奴は去勢するという脅しの仕方にも表れている。
このファイトクラブのメンバーが、社会を支える底辺労働者というのが、今のコロナに抑圧された社会に被って、うーんってなった。
攻撃性・暴力を規制された社会は、原始的な生命力そのものを奪ってしまっている。それを取り戻したい。けれど、その攻撃性はいつしか内輪で発散させ互いに受けとめ合うものから、社会・階層の抑圧の構造そのものへと向けられていく。
主人公が、もう一人の自分、理想の自分であるタイラーと対立していくくだり。むしろよくこの良識が呑みこまれずに残っていたな、と思う。
マーラの役割はよく判らない。守りたい人の存在として必要なのだろうけれど、主人公に彼女への感情的執着があると思えなくて。ああ、本人はその執着を認めたくないがゆえに、タイラーに投影してるのか。そしてタイラーはその想いを知るがゆえに、目的に対する妨害として彼女を排除したいのか。
タイラーという別人格を生みだすにしては、ベースのこの主人公は空っぽな感じ。はたしてそれほどの抑圧がかかっていたのかと訝るほど。
タイラーは、狂気や悪としてではなく、カリスマとして受け容れて洗脳されそう。こういう秩序に対する反抗、攻撃は、いずれ環境そのものを破壊してしまうのに。暴力で勝ち取ったものに、新しい秩序を作ることができるか、てのが鍵。
生命力としての攻撃性・暴力と、そのコントロールの難しさ。ファイトクラブにしても、その権力構造は反抗する社会の構造と変わらない。
力が、より具体的に目に見える形であらわされているだけで。
ボブが死んだときの、「彼は人間だ。名前を持つ一個人だ」てところも好き。
主張をするとき、その主張が個人を離れて独り歩きを始める。主人公の無意識に巣くっていた欲望を具現可していたタイラーが、いつのまにかファイトクラブの意志に成り代わっていったように。
こういうタイラーのような主人公、描きたい。
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子ども(あーこさん)と再視聴。精神分析的な読み解き方を話していたんだけど、「マーラも妄想じゃないの?」と指摘されて、あ! ってなった。なんで気づかなかったんだろうって。彼女も主人公のなかの別人格と考えると、パチリとパズルのピースが嵌る。
マーラは彼のアニマなんだ。彼のなかの女性性。タイラーが男性性で、暴走する攻撃性なら、マーラはそれに抑圧されてきた女性性で、ラスト、タイラーを殺す=制御して、マーラを受け入れることで、主人公の人格の統合とリビドーコントロールが完成されたんだな。




