「ボヘミアン・ラプソディー」(映画)
監督Bryan Singer
伝説のバンド<クイーン>の感動の物語。1970年、ロンドン。ライブ・ハウスに通っていた若者フレディ・マーキュリーは、ギタリストのブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーのバンドのボーカルが脱退したと知り自らを売り込む。二人はフレディの歌声に心を奪われ共にバンド活動をし、1年後、ベーシストのジョン・ディーコンが加入。バンド名は<クイーン>に決まり、4人はアルバムを制作し、シングル「キラー・クイーン」が大ヒット。個性的なメンバーの革新的な挑戦によって、その後もヒット曲が次々に生み出され、フレディは“史上最高のエンターテイナー"とまで称されるようになる。しかし、栄光の影で次第にフレディはメンバーと対立し孤独を深めていくのだった……。© 2020 20th Century Studios
「俺たちは家族だ」という彼らの関係性。家族というものの考え方。万能感の子どもフレディが、長い道のりを経て家族のもとへ帰ってくる。そんな物語に思えた。
でも、シーン、シーンは細切れで繋がりが解り辛く、力強いセリフとは逆のフレディの虚ろさ、満たされなさのなぜは想像が難しい。一番はセクシュアリティの問題なのだろうけれど、彼は理解者であるはずのポールの言いなりにはなるのに、親密な関係性は築けていないようにみえる。というか、フレディ、わがまま三昧なのに、大切な決定をするのはいつも誰かの言葉。他者の口からでるまで、それを自分のものとして自覚できないようだ。
ポールとの関係を仲間に揶揄されたとき、それはゲイである自分を否定されたように受け取ったのかな。外から見た彼らは、ゲイということよりも、そのべったりした一体感、フレディの自我の感じられなさを、彼らは不満に思っていたのではないだろうか。彼らがゲイをどのように考えていたのかは語られないけれど、ミュージックビデオでの女装等、彼らだって納得済みだよね。疎外感を持って、自分から場の外へ出たのはフレディ。自分のセクシュアリティを認められなかったのは彼自身。
ようやく彼が本当に求めているものへと足を踏みだすことができたのは、エイズになって死を意識してから。それでも遅すぎた、ということはなくて。
彼が心の奥底でずっと拒絶を恐れてきたのであろうバンド仲間にしろ、家族にしろ、きちんと正面から示した彼自身を、同じように真摯に受け止める。
自己主張と自我の薄さ。フレディは万能感の子ども。だから愛される。けれど彼の成功は彼を満たさない。子どもの万能感は刹那の感覚だから。現実を生きるには、麻薬的な感覚刺激だけでは生き抜けない。
でも、実際のフレディがこの映画から受ける通りの印象の人だったのかは判らない。本物のライブ映像から受ける印象はまた違うもの。
デヴュー頃の彼らの、ああ、ブリティッシュ・ロックは階級の叫びなんだな、としみじみ。
心に残ったのは、「皆の欲しがるものを与えることができる」(だったかな? うろ覚え)
ステージや音楽のうえでの彼の自己実現。万能感をいかんなく発揮できる。子どもの心を吐き出して受け止めてもらえる。それは多くの人に共感してもらえる抑圧された叫びなのだろう。
けれど、実生活のうえでの彼は、両親やバンド仲間に自分の性癖を真正面から告げることはできなかった。死を前にするまで。ポールとの関係も彼らの前では隠している。要は本当の自分を受け入れられないのは、フレディ自身。
表現の世界は、虚構なのだろうか? 音楽もステージも、ドラッグパーティにいる他者でさえ、彼のインナーワールドなのだろうか?
本当に結びついているのは「家族」だけ。彼の外的世界=実世界は肉親とバンド仲間の「家族」だけだったのかもしれない。
最後のライブエイドは、内的世界としてのステージが実世界と重なる、本当の自己実現。だからああも感動するんだと思う。
映画はフィクションとして、いろいろ考えたのでした。
そして、精神病理と階級闘争はいろいろ重なるものがある、と思ったのでした。




