ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ
監督 トッド・フィリップス
理不尽な世の中の代弁者として、時代の寵児となったジョーカー。彼の前に突然現れた謎の女リーとともに、狂乱が世界へ伝播していく。孤独で心優しかった男の暴走の行方とは?誰もが一夜にして祭り上げられるこの世界――彼は悪のカリスマなのか、ただの人間なのか?衝撃のラストに備えよ。(C) 2024 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND DOMAIN PICTURES, LLC. (C) & TM DC. ALL RIGHTS RESERVED.
半ばくらいで、なにこれ、悪のカリスマとしてのジョーカーの社会現象化を鎮静化させるために作ったんかな、と思ってしまった。ジョーカーはカリスマなんかじゃない、ただの弱い人間だよ、と噛んで含めて言い聞かされているような筋運び。
裁判でも、自分の過去や踏み込まれたくない内面を暴かれ、ジョーカー化するアーサーだったけれど、権力側に叩き潰され踏みつけられて、心を折られてしまう。ジョーカーではないアーサーをハーレーはあっさり見捨てるし、そもそも、周囲にマウントとるためにアーサーに近づいたかのような歌で始まる二人の出会いだった。
最初から最後まで、誰かに操られ、繋がれた糸を切ることができないまま、偶像化されたアーサーの物語は終わる。というか、次のジョーカーへバトンタッチされて終わったのかな。
一作目は現実か妄想か判らないほど身近な幸せだった妄想が、今作でははっきりと妄想だと分かるほど、スポットライトを浴び、ステージ化されていた。彼の自己像が変わり、世界観が変わったということかな。妄想はいっそう現実から離れ、ステージ内で演じられるミュージカル劇に。病的な妄想というよりも、もっと作為的な望まれる役を演じるアーサーになっているのに、現実はそれを許さない。
これでもかと踏みにじられるアーサーの姿は、不条理な現実への怒りを、そんなものを抱えても無駄だと上からにじっているようで。現実に殺人を犯したことの罪と罰とは違う、社会的な感情への抑圧としての暴力的支配を見せられているようで不快だった。
悪や暴力の神格化を防ぐために、華やかなパフォーマンスの裏側にある素顔を見せ、その惨めさを煽るのはなんか違うんじゃないか。と、釈然とせず、後口の悪い映画でした。




