「クルエラ」(映画)
監督 クレイグ・ガレスピー
映画史上もっとも悪名高きファッショナブルな悪役クルエラ・ド・ビルの誕生秘話を描いた実写映画の新作「クルエラ」の主演をエマ・ストーンが務める。「クルエラ」の舞台は、パンクロックが台頭していた1970年代のロンドン。そこで若く才能溢れる少女エステラは、様々な出来事を巻き起こし、やがて彼女の邪悪な一面が覚醒し、騒々しくファッショナブルで復讐心に燃えるクルエラへと変貌していく。
これを見る直前に「Shrink~精神科医ヨワイ」の境界性パーソナリティー障害の回を読んでいたせいもあってか、境界性パーソナリティー障害に当てはめて解釈してみると面白かった。
尤も、エステラは境界性というよりも、反社会性パーソナリティーがより当てはまるだろうけれど。
境界性というと、執着心の強さから起こる対人トラブル、見捨てられ不安、が特徴としてあがるけれど、執着心は人にではなく創作に昇華、見捨てられ不安は、産まれてすぐに捨てられた怒りに変換されたところから始まる、と考えています。
性格は遺伝か、環境か?
私は長い間、環境要因に重きを置いて、環境を整えることで子どもの性質を作っていけると信じていたのだけど、心理学的には、遺伝50%、環境50%だそうです。
そして、私も今は、遺伝の力すげー!と驚くことしきりです。
エステラにしても、環境要因以上に遺伝子か? と考えざるを得ないところもありますが――
おとなしく、優しい母に育てられた母に育てられたエステラは、幼い頃から、悪く言えば反抗的で言うことをきかないきかん坊、良く言えば、確固たる自我があり、型に嵌めるコントロールを嫌う自立心旺盛な子ども。
しかし、そう見えるだけで、確固たる自我に見える自己主張は、本当に自我なのか? 思い通りにならない現実、社会ルールの抑圧に対する幼児的な反抗心を、自我といっていいものか迷う。
こんな風に言ってしまうと、舞台はロンドン、時代は60~70年代の背景は、ブリティッシュ・ロックが一世を風靡していた頃で、既存の権威に対する反体制的なパワーの象徴としてのエステラ=クルエラという見方もできるので、幼児的反抗といってしまうのもどうか、と思う。物語にはそう臭わせないけれど、階級闘争的な見方もできるから。
それは置いておいて、エステラは「母の言いつけを守らなかった悪い子」だったために、母を死に至らしめてしまう。深い罪悪感に苛まれたエステラは、悪い子の自分を封印して、母の望んだ良い子のエステラとして生きることを決心する。長ーい抑うつポジション期と偽りの自我の発達。
第二の家族ともいえる、泥棒仲間ジャスパーとホーレスとの共同生活はそれなりに幸せを感じられるものだったけれど、本来自分たちのような底辺の出身ではないエステラに、その才能を生かして表の世界で成功して欲しいと願うジャスパーによってファッション界に足を踏み入れることになる。
このジャスパーとエステラの関係が、なかなか共依存的で。ホーレスも同じ様にエステラを助けてはくれるけれど、仲間意識以上のものはなさそう。けれどジャスパーは、エステラにいろんなものを託しているし夢を見ている。自分自身はその場所へ行けない諦めとか、自分とは違う階級に属するはずの彼女への崇拝や憧れが垣間見える。底辺であっても、愚鈍な白人と賢い有色人種設定がイギリス的。
その関係性も、憧れだったデザイナー、バロネスが自分の母を殺したことを思い出したエステラが、復讐のために本当の自我、クルエラを呼び覚ましたことで変わっていく。この本当の自我を呼び起こすって作業は、偽りの自我を自分に作らせるきっかけとなった母を否定する作業でもあって、「わたしのせいで死んだお母さん」は、「自分を型にはめ、従わせようとしたお母さん」として悪者として処理される。直接的な死の原因になったのは自分ではなくバロネスでも、「約束を破った」からこんなことになったという罪悪感を払拭するには、その約束そのものを悪にしなければ抜け出せない。
そして、クルエラとして活躍していくのだけど、その過程で、ジャスパーとホーレスをぞんざいに扱い、関係性に亀裂が入っていく。ここで、「Shrink~精神科医ヨワイ」のセリフ、境界性パーソナリティー障害の人間関係は「家来か敵」しかないを思い出した。
事情や目的、心情は解っていても、下僕扱いは許せることじゃない。そもそも助けてもらう態度じゃない。復讐相手に向ける傲慢さを仲間にも向けていることにエステラは気づいているだろうか。
仲間に見捨てられそうになって、エステラもようやく反省。社会規範に合わせるように自分に言い聞かせていた母は、自分をコントロールしようとしたのではなく、互いが気持ちよく共にいるために必要なことで、自分に向けた愛なのだと納得できるに至る。
攻撃性と結びついている多大なリビドーをファッションというアートに昇華して、本当の自我と偽りの自我を統合して他を思い遣れる大人にな(れたかどうかは判らない)る、成長物語でした。
エステラとクルエラ、二人の自分に分けながらも、二重人格じゃなくて、偽りの自我と本当の自我というふうに、自分で選び切り替えることができるものとして扱っているのが面白かった。
そして、本当の自分を愛して認めて助けてよ、(と言葉で言っているわけではないけれど)と言ったところで、「無理だよ」と返ってくるところがすごい。自分を晒して生きることは、相応のリスクもあれば失うものもある。大切なのは、他者も自分と同じように彼ら自身の本当の自分を尊重する心がある、ということに気づくこと。自分が感じるように相手も感じているはずだと思い込んだり、あるいは逆に、相手の感情に無関心だったり、自分を尊重することだけを求めるなら関係性を保つことは無理。理解はされても、悪い子がちゃんと愛されない、悪い子で居続けることを許されない、「NO」を突きつけられるのがすげーってなった。そして、そこに気づいて改めてくれればOKだよって受容されるところも。否定されているのは、彼らを尊重しない態度であって、彼女の存在そのものじゃない。
本当の境界性だったら、ここでこじれるところなんだろうな。そこはまぁ、時間枠のある映画なので。
観ている間は、ファッションかっこいい、綺麗、と視覚的な刺激にばかり目がいって漫画チックな展開を楽しんでました。




