「ある少年の告白」(映画)
監督ジョエル・エドガートン
アメリカの田舎町。牧師の父と母のひとり息子ジャレッドは、あるきっかけから自分が同性愛者であることに気づく。戸惑った両親は矯正セラピーへの参加を勧めたが、それは驚くべきプログラム内容だった。自らを偽って生きることを強いる施設に疑問と憤りを感じ、ジャレッドは遂にある行動を起こす…。
たぶん、正しい読み解き方とは違う感想を自分は持っていると思う。
親に対して万能感の息子。
「僕は深く傷ついた」と告白したときの息子、過去の父親の対応を詰るんだけど、自分の行動は忘れてるね。
父親は「本当にお前は変わりたいと思っているのか」って、ちゃんと息子の意思確認をしてるし、息子の話を聴こうとしていた。それを「聴いてくれなかった」って、レイプされたショックや、自身クリスチャンであった彼にしても様々な葛藤で混乱して言語化できるような状態ではなかったにしろ、全てを父親のせいにして、被害者づらするのは、共感できない。
自分は変われない。自分を失いたくなかったら、ありのままの自分を受け入れてほしい。
それは別にいいんだ。当然の想いで、それを望むのも当然の権利。だけど、だからそっちが変われ、というのは違うと思う。
それではやってること同じじゃないか。愛されている息子の立場を盾に取った強迫だ。
受け入れられない父の信念もまた、彼のアイデンティティの根幹にかかわる問題。僕は正しく、間違っているのはあなた、といえることじゃない。
お互いが相容れない信念と主張をもっているのなら、その違いの正しさを主張しあって傷つけあうのではなく、距離を保つ、自分を認められない相手を認める。それが、家族間ではうまく機能しないのかな。
愛されているという想いは、甘えと承認を求める。どこまでも許してくれる神を親の中に求める。
と、いろいろ考えてしまった映画。でも、全体としては、彼の自分の性癖への葛藤って言語化されていないくて、悩んでいたのかさえよく判らない。ただ、自分を非難する周囲を批判的にジャッジしている感じで。
実話に基づいた物語の、この辺りが語りての防衛なのかな。「聴いてくれなかった」という事実を、彼は吐露することはない。何か、おかしいなぁ、と思う。
好意をもっていた相手にレイプされ、それを事実とは違う形で親にチクられ、それから、自分のセクシャリティの告白をする。この過程の葛藤って、見えてこない。クレジットで著者の写真がでてるんだけど、その顔に見られる繊細さが、この俳優さんには見えないからかな。
ゲイのアイデンティティの物語、というよりも、父子のエディプス葛藤の話に思えた。
矯正施設の実態は、キリスト教、怖~! っていうもの。でも、この解釈は、心理学的にも、教義としてもどうよ、って感じ。
牧師の息子で、知的レベルの高い主人公には、そのアラからしてお話にならないんじゃないか。
気にかかるのは、主人公をレイプしたヘンリー。彼もクリスチャンで、衝動を抑えられない自分に苦しんでいる。彼がカウンセラーと偽って、ジャレッドの親に電話したのは、抱えられない事実の投影だったのだろうか。




