「プロミシング・ヤング・ウーマン 」(映画)
30歳を目前にしたキャシー(キャリー・マリガン)は、ある事件によって医大を中退し、今やカフェの店員として平凡な毎日を送っている。その一方、夜ごとバーで泥酔したフリをして、お持ち帰りオトコたちに裁きを下していた。ある日、大学時代のクラスメートで現在は小児科医となったライアン(ボー・バーナム)がカフェを訪れる。この偶然の再会こそが、キャシーに恋ごころを目覚めさせ、同時に地獄のような悪夢へと連れ戻すことになる……。
引っ越しと家の改装疲れで、さすがに今日は休憩の日。久しぶりに映画を観ました。うちの娘さんのお薦めで。
なぜ彼女はこんなことをしているのか。が、物語が進むにつれて少しづつ明かされていく。
エリートコースを歩んできた坊ちゃん、嬢ちゃんたちの抱えていたであろう抑圧と傲慢さ、狡さが余すところなく伝わってくる。
「あの頃はガキだったから、」と、自分のしたこと、しなかったことを冷静に振り返ることのできる大人になったとき、過去に対してどんな対応をするか。
ただ一人、自身の罪を悔いて泣いた弁護士に対して、キャシーは「あなたを許すわ」と告げるところなんかは、やはりキリスト教圏らしい。
物語とは直接関わるエピソードではないけれど、道路の真ん中で車を止めたままうたた寝だか考え事だかしていたキャリーに、他の車の男が罵詈雑言を浴びせ、それに対して彼女がバールで相手の車をボコボコにしてウインドウを割る場面が一番強烈に印象に残った。
口汚く罵っていた男は、こんなめに合わされているのに、やり返すことなく一目散に逃げて行くんだよね。相手がヤバい奴だって気づいたら、やり返すとか、警察に通報とかよりも、逃げるが正解なんだな、って妙に納得した。警察が来る前に、自分の頭をかち割られたら終わりだもんね。
全編通して、いろんな男たちの口から、「自分は善い人間だ」って言葉が吐かれるのだけど、彼らにとっての善い人間の定義ってどんなものなんだろう。
最後の方で明かされる、大学で成績一番のニーナ、二番のキャシー、三番手だったアル。事件の後、ニーナはビッチとしてラベリングされ大学を中退。この事件そのものが、妬みやひがみから、「力では自分の方が上」を誇示するような、幼稚な感情から起こったものだったのかな、とかとか。
だけど、ニーナを崇拝し、自分自身を捧げ尽くしてしまったキャシーの生き方は悲しすぎる。生き方、というよりも自分自身を生きることができなかったことが、というべきか。
****追記
つらつらと思い返していました。
キャシーの愛したニーナ像が、どうもちぐはぐ。最初は、「誰とでも寝るビッチ」だとそんなイメージで出てくる。でもラストで明かされるニーナ像は、大学トップの成績を収めた自我の確立したカリスマ性を持った女性。
キャシーの復讐は、奪われたニーナ像を取り戻すことだったのかな、とちょっと思った。
示談に持ち込む為に、あるいは裁判で有利な印象を与えるために、弁護士によって捏造されたビッチなニーナ像。おそらくは、一服盛られた上での計画的な犯罪だった事件を、再び明るみに出してニーナの奪われた名誉を取り戻す。
懺悔した弁護士に、自分亡き後の通報を頼んだキャシーは、彼のことを信じているということだ。
おそらく、自分の殺人事件が法廷で裁かれるとき、争点は、正当防衛か否かで、アルを刑務所に送ることは難しい。けれど法廷で、自分がアルを襲った動機を、検察側の証人としてあの弁護士が法廷に立ち全てを明るみにして証言してくれるなら、それでニーナの名誉を回復できる。アルがその事件で裁かれることはなくても、その罪は一生彼について回ることになるだろう。
そしてライアン。本当にクソな男だったけれど、妙にリアル。脅されても、言いなりになるだけで、現実を見ようとしない。顔を背けていればそのうち怖い物はどこかへ行ってしまうだろう、って。
思考停止ってこういうのをいうんだな。
登場人物のみんな頭がいい。だから、キャシーに何を問われているのかちゃんと解っている。解っていて顔を背け続けてる。
キャシーの復讐は、彼らが考えを改めることで、彼らの人生を破滅させることではなかったんじゃないかな。
きっと、彼女が一番憎んでいたのは、ニーナを助けることのできなかった自分自身だと思うから。
夜ごとニーナになって男たちから救い出してもなお、許すことのできないのは、男たちやアルではなく自分自身だろう。
キャシーはようやく、ただ一人、考えを改めた弁護士を得たことで、事件の始末を託すことで、安心して自分を葬ることができたのだろうか。




