「セクシャリティー」(映画)
監督スックイン・リー
仕事をクビになったその日、タイラーは父が死んだと言う知らせを受け取る。母と生まれたばかりの自分を捨てた父。それ以後、情緒不安定な母親と2人、自分を押し殺して生きてきたタイラーだったが、父のことをちゃんと知りたいと、母の反対を押し切り生前父が暮らしていた家を訪れる。
「ピアニスト」のような、娘を束縛する母親との抑圧的な関係からの自立の物語かと思ったら。
なぜか、ホラー展開。最後まで観るとあのバスのなかの男はなんだったんだろう、と…。
父の幽霊がでてきたときには、コメディだったのか、と思ったし。会員制クラブに入り込むために男装する場面で、ようやく「セクシャリティ」の題に至る。
寮の電子レンジを売った“彼”に対して、金ならやったのにという友人の言葉がいい。
「ただしルールには従え、愛にも自然界にも法則がある。俺には法則がある。聞きたいか、たくさんあるぞ。クソみたいな持論だ」
「もし法則がなかったら、欲求の根底にあるのは差し迫る危機感だ。何かを失う恐怖心から行動してしまう。手に入らなかったり、禁じられていると思うと欲求が高まる」
「そうは思わない」
「デカルトは人間を機械に例えたが間違ってる。惰性でも生きられるが、自ら選ぶ道もある。他人の期待に応えようとしなくていい。自分で考えろ」
“彼”の名前が、ギリシャ語ぽくて、覚えられない。タイラーが父の家を見て回るシーンで、この“彼”と父が二人写っている写真がある。そこでもう、ああ父はゲイだったんだな、と解ったので意外性はなかったけれど、動機は違ったな。
彼の名前にしろ、彼がふざけてギリシャ彫刻に扮する場面にしろ、文学青年なのに筋肉質な綺麗な身体にしろ、古代ギリシャの師弟関係を話す場面にしろ、これでもかとゲイの伏線が散りばめられていた。
幽霊となって現れた父親、なぜ成仏できなかったのか。この教え子への執着だたのか。娘に傷心の若い恋人を引き合わせ、自分の代わりにしたかったのか、それとももう一度この部屋に連れ込むことで彼に触れたかったのか。その欲望があるのに、娘に「知られたくなかった」という恥じ入る姿は、想定外だった。
彼にとって、娘はなんだったのだろう、かと。自分を成仏させてくれといい、全てをやったといい、自分の元恋人に恋する娘に、煽るようなことを言い。それでも彼が未練を残していたのは恋人。娘は恋人を呼び寄せるための道具か?
タイラーが女だと解ってからの“彼”の変化にしろ。セクシャリティって、そんなに大事か、って思ってしまった。ここはタイラーに共感する。
女だからか、嘘をつかれていたからか、どちらにせよ、彼にとってタイラーは元恋人の子どもで、想いを投影していたに過ぎない存在だとは思う。
タイラーは、彼自身に惹かれたんだろうに。
そしてラストで、母親が追いかけてくることで、冒頭シーンに回帰することになる。母を気遣いいいなりだった娘は、はっきりと自分の意志を主張する。
でも、これって、母をおいて家を出た場面で、巣立ちは達成できているから、あまり意味があると思えないんだよ。
母とは一緒に帰らない。彼とも別れを告げる。彼女はどうするのかよく判らない。
そして、孤独を愛していたと思っていた父が、たんに自分のセクシャリティから逃げていただけで、死ぬ間際に、プラトン的な関係を結んで、「孤独は嫌だ」とか「人肌恋しい」と言いだすのにげんなりした。




