「パピチャ 未来へのランウェイ」(映画)
パピチャ 未来へのランウェイ(字幕版)
1990年代、アルジェリア。ファッションデザインに夢中な大学生のネジュマはナイトクラブで自作のドレスを販売している。夢は、世界中の女性の服を作るデザイナーになること。だが過激派のイスラム主義勢力の台頭によりテロが頻発する首都アルジェでは、ヒジャブ着用を強制するポスターがいたるところに貼られるように。従うことを拒むネジュマはある出来事をきっかけに、命がけでファッションショーを行うことを決意する。(C) 2019 HIGH SEA PRODUCTION - THE INK CONNECTION - TAYDA FILM - SCOPE PICTURES - TRIBUS P FILMS -- JOUR2FETE - CREAMINAL - CALESON - CADC
監督ムニア・メドゥール
出演リナ・クードリ, シリン・ブティラ, アミラ・イルダ・ドゥアウダ
予告を観ただけで、これといった前知識なしだったこともあって、衝撃の展開にびっくり。予告と、前半のはっちゃけた女子大生生活から、てっきり抑圧を跳ね飛ばしていくサクセスストーリーだろうと思っていた。
この映画の舞台になる「暗黒の10年」の4年前にアルジェリアを旅行したことがあり、そこで知り合った女子大生の女の子のこととか思い出してた。寮に泊めてもらって、学食に連れていってもらって。
もう朧な記憶だけど、その子と比べると、この映画の主人公ネジュマはあまりにも政治や自国の政情に疎い。大学に行くような知識層なのに、こうも反発心だけで突っ走り、周囲がそれを応援しあと押しするなんて。寮監までもが。
ネジュマは、男たちの忠告を抑圧や無理解と捉え、聴く耳を持たない。自分の正しさを証明するために熱くなって、現実を検討することなく希望を表現するわけだけど……。
この主人公、どうしてこうも高慢なんだろう。誰に対してもたかぴしゃで。抑圧からくる屈辱感の裏返し? それにしても、女性の解放を謳いながら、男性に保護され助けられるのは当然の態度も、友人たちへの甘えた言動も、好感持てなくて。それでも、友人たちは、自分にはできないことを彼女に託して実現化することに、夢や希望を見いだしていることは、わからないでもないのだけど。
門番の暴力にしろ、日和見主義の洋服屋の裏切りにしても、彼女自身が招いた一面もあるんじゃないか。弱味を握られているのは自分の方なのに、一方的に高圧的で相手を馬鹿にした態度なのは、物語では語られていない彼女の階級意識からくるものなのか、女性という弱者として気遣われることに慣れた、特権意識なのか。ボーイフレンドの「チャンスをやる」という上からの言い方に反発するのも、心情として解るけれども、それ以前に、あんた何様というあなたは何様? と問いたくなる。
ラストの衝撃度は「ホテル・ムンバイ」並み。とにかく戦略のなさへの驚きと、武力を前にしたときの無力感が半端ない。
現状を変えたいと望み、既得権益を得ている層と戦いたいと挑む時、戦う相手を見ようともせず、頭から馬鹿にして自分の言いたいことだけを喚き散らしたところで、尊重されるはずがない。相手が自分に対してそうだからといって、同じことを返せば、自分が抱いたのと同じ憎しみや屈辱を与えてしまう。
いったいこの映画のどこに希望があるのだろう。
アラブ女性は、本当はヒシャブを嫌い、おしゃれな服やセクシーな下着が好きで、未来に夢や希望を持つ自分たちと同じ人間で、イスラム原理主義の被害者なんだよ、って?
アルジェリアに行ったときの、あの閉塞感を思い出す。そこで知り合った若い人たちの、息苦しさや未来への展望のなさ、諦観。
金銭的に余裕があるなら、この国から逃げだしたいと考える。家族や友達が大事で動けないなら、心を吐露することを諦める。そんな若者たちだった。
だからこの映画で一番納得できたのは、彼女のボーイフレンドや、自分自身が生き延びるために武力行使する側におもねる男たちの方だった。
マドンナに憧れ、自分の国でも、彼女のように振舞うことが許され受け入れられると錯覚している主人公は、現実で進行している局面に反発するだけで危機意識を持とうとしない。姉を殺されているのに。認めれば、恐怖で動けなくなるのが分かっているから否認するのかもしれないけれど。
なんだろう、このスッキリしない感じは。結局、ショーの決行がチクられたり、テロリストがあっさり侵入できたのが、ネジュマの高慢な性格のもたらした自業自得のように見えてしまうからだろうか。
アルジェリア本国では未だ上映できない映画。彼女たちの抵抗は、彼女の愛する自国では否認されている。




