「ガリーボーイ」(映画)
監督ゾーヤー・アクタル
出演ランヴィール・シン, アーリア-・バット, シッダーント・チャトゥルヴェーディー
スラムで生活するムラドは、雇われ運転手の父を持つ貧しい家の青年。両親はムラドが今の暮らしから抜け出し成功できるよう、彼を大学に通わせるために一生懸命働いていた。ある日大学構内でラップをする学生MCシェールと出会い、ラップの世界にのめりこんでいく。
以前Twitterで見かけたインド製ラップが人気のツイートから、動画を見に行った。アマプラで何見ようかと探していたら、その人が映画になってる!
で、早速観ました。
映画はイメージしていたような、即席で作られたラップ世界ではなくて、ずっしりと重たい感触のもの。
インド内のラップの位置づけは、想像していた通り、底辺にいる人たちの魂の叫びのようなものではなくて、西洋文化のスタイルに憧れる金持ちの道楽のよう。そのなかで、ムラジは、アメリカのマネではなくて、自分たちの現実をラップにのせて表出する。
ボリウッドスタイルじゃないインド映画で見たもの、なぜか主人公がムスリムが多いな。インド社会でのマイノリティだからだろうか。「ミルカ」や「スラムドッグ・オブ・ミリオネア」にしろ。
ムラジの恋人がなかなかツボった。幼馴染との恋愛、だけど本人たちは意識していないかもしれないけれど、彼女の高慢さ、独占欲とムラジの関係性は階級意識の反映じゃないの、と思えた。籠の鳥のように閉じ込められて生きている彼女にとってのムラジって、自分の攻撃性や支配欲を満たしてくれる道具のようで。ムラジがどんどん外の世界を知っていっても、けれどやはり彼は「過去を捨てられない」と彼女を選ぶんだろうな、とも思える。
ムラジがラップを知って自分自身が変わっていく。その過程で今の彼と合うのはスカイだろうと思うのに、恋人は自分自身と同じで切り捨てられない。スカイを自分の飛躍のための足掛かりにしないし、自分とは違う世界の人間に置いて、そこへ自分を持っていこうともしない。
自分の生きてきた世界を捨てられない。それがとてもインド的に思えた。家族や地域社会が自分の自我そのものになっているような。個を追及する西洋とは違うなって。
個人としてそれぞれがそれぞれの価値観のまま互いを認め合うのが西洋的なものなら、ムラジは自分自身が成功することで周囲を巻きこみ自分の一部として変革する。家族が彼の一部のように、彼もまた両親や友人たちの一部。それも誇らしい理想化された自我になる。




