「ハミングバード」(映画)
監督スティーヴン・ナイト
ロンドンの暗黒街で、絶望のどん底を這う男。彼の名はジョゼフ・スミス。かつては特殊部隊を率いる軍曹だったが、そこで犯した罪から逃れるため、家族や社会からも距離をおき、息をひそめて暮らしていた。ある日、唯一心を通わせた少女が拉致されたことで、彼の人生が大きく動き出す。彼女を救うために他人になりすまし、裏社会でのし上がっていくジョゼフ。しかし、少女の残酷な運命を知ったとき、彼の怒りは決壊、復讐の炎と化す。過去に犯した罪、そして自らの人生にも決着をつけるため、ジョゼフが最後に下した決断とは──?
この主人公を断罪するのも、批判するのも、簡単に思える。それが社会というもので、法というものなんだろう。
結局、タイトルのハミングバードって何だっていうと、彼の行動を断罪する軍の偵察機。彼にとって、彼を罰する超自我だともいえる。
妄想的に現れる「鳥」は罰を怖れ己の罪から逃げ続ける彼を監視する。
ホームレスになっての逃亡生活で知り合った少女の復讐にしても、その時の仲間への施しにしても、彼は自分が受けた恩を忘れずに相手に返そうとする。それが「良い人間」としての努力。そういう幼い倫理観を持っている。
だから、戦場で仲間を殺され、その犯人(それも当人かどうかも判らない)を私刑にかけ、軍法会議にかけられることになる。彼が言うように「眼には眼を」を地で行っている。
少女を殺したエリートを殺すことにしてもそう。犯人はエリートで、少女は地方からなのか移民なのかはわからないけれど、娼婦だから、警察はまともに犯人を捜すことはないとばかりに、自らの手で復讐を果たす。こういう彼の思考に階級意識が見えて、イギリスらしい。
同じことを繰り返す。自分の手に、人を裁く権利があるとばかりに。彼がこの殺人を衆人のもとで行い、逃げ隠れすることなくハミングバードを連想させる偵察カメラで発見される場面で終わるのは、彼が逃げるのをやめ、自らを罰する力を受け入れたからだとも言えるのだろう。
彼はシスターに心の癒しを見いだすけれど、彼の妻と子どもには最後に写真と金を渡すだけで、ほとんどかかわらない。それは、彼が家族を忘れているからではなくて、自分のかかえる罪を自覚していて、聖域である家族にはもうそんな自分は触れることはできないからじゃないか、と思った。
彼の方の葛藤に較べて、シスターの方は、神との関係とか贖罪意識とか判りづらい。自分の罪を悔いているとは思えない。夢を絶たれた自分を憐れみ、憎しみを抱え続けているように見える。
もう、組織としてのキリスト教は機能していても、信仰というものはないのかな。
それにしても、考えさせられること盛沢山のいい映画でした。
ダンボール箱に入れられての人身売買は衝撃的だった。そして、私はやはり暴力シーンは、殴られる方に共感して、殴る方の意識には沿い難くて不快さと痛みで気分悪い。




