第一話 武者小路かすみ
次に勇次が目覚めたのは、辺りに何もない草原のど真ん中だった。
――ここは、一体ぇどこだ……。
辺りをゆっくりと見回すと少し離れた場所に小さな集落があるようだったが、それ以外には何も見当たらない。
突然、右も左も判らない世界に投げ出され、それは途方に暮れて自分を見失いそうな程の急激な変化だったにも関わらず、勇次は何事も無かったようにゆっくりと立ち上がり純白のスーツの汚れをパンパンと払った。
――あのべったり付いてた血糊が綺麗サッパリねぇや。こりゃスゲぇ。流石観音菩薩様ってとこだな。
彼はこの変化に全く動じていなかった。見ず知らずの土地にフラッと一人で行くことに慣れていた勇次は、こんな状況に陥っても物怖じしないタフな精神力を宿していた。
「とりあえず、あそこ行くか……」と数キロほど先に見える集落を目指すことにする。
集落に続く畦道を歩きながら周りを見渡しても、やはり特に何もめぼしいものは何もない。
煙草でも吸うかと上着やズボンのポケットの中身を確認すると、一枚の紙切れが入っていた。
そこには多くの梵字が円を描くように書かれていて、その中心に勇次の名前が書かれている。
――なんだこりゃ?
他に持っているものは、手に馴染んだいつものドスだけだった。
――スマホも時計も財布もねぇな。時間もわかりゃしねぇ……。煙草は……この際止めるか。
名前の書かれた紙切れをポケットに仕舞い込んで、諦め顔のままいつものように肩で風を切りながら歩き出す。
でこぼこの畦道を集落に向かってちんたらと歩いていると、助けを求める少女と思しきか弱い声が、何処からか聞こえてくる。
「キャーやめてー、助けてー」
声のする方向を見ると、青い肌と赤い肌をした二匹の子供のような鬼が、少女を襲おうと追いかけているのが目に入る。
――なんじゃありゃ? バケモンか? とりあえずあの子助けてやらねぇと!
勇次は全力で走り出し、少女の元へ駆けつけたその勢いのまま青い鬼子を殴りつける。するとブシュっと鈍い音を出して青鬼は潰れ、更にそのまま手刀を赤鬼に叩き込むと、赤鬼も同様に嫌な音を出して潰れ、どちらも跡形もなく消え去った。
「――大丈夫かい? お嬢ちゃん」
「はい、ありがとうございましたです。鬼子を簡単にやっつけちゃうって凄いですね、おにーさん」
「鬼子って言うのか、なんだありゃ?」
「知らないんですか? なんだか悪いやつが作った、し、しきがみ、とか言うやつだって、パパが言ってました」
「そっか。式神ってのか。ここは変なのが居るんだな……」
「ね、おにーさん、名前はなんていうのですか? 私はかすみです」
「かすみか。俺は勇次だ」
「ゆうじさんかー。今から家に来てください! パパとママに助けてもらったってお話しをするのです」
「いや、そんな事はしなくていい。お嬢ちゃんが無事だったらそれでいいんだ」
「だめです、一緒にきて下さい。お願いします!」
少女特有のお姫様ぶりを遺憾なく発揮している娘は十歳ほどに見える。可愛い桜の花があちこちに散りばめらた生地で作られた着物に、ツインテールにした髪の根元に紅い布をリボンのように巻いていた。
「お願いしますって……わかった。じゃ一緒に行こう。また式神ってのが出ても困るからな」
「うん!」
かすみは勇次の手をさっと取り、歩きながら鼻歌を歌い始めた。
「何だか楽しそうだな。こんなところで一人で何やってた?」
「んとね、今日はパパの誕生日なのです。だからかすみはお花を編んでペンダントを作ろうと思ったのです」
「そっか。そりゃ親父さんは喜ぶだろうな」
「そうなのです!」
『安曇野村』――集落に向かう途中の道標にそう書かれているのを見かけた。
程なくして安曇野村に着くと、そこは江戸時代などのような古い木造の家屋が立ち並んでいて、着物を着た子どもたちが走り回り、賑やかな村のようだった。
――この村の風景や建物は写真や映画で見た昔の日本のようだなァ……でも、話し言葉は現代っぽい。何だか違和感がすげぇな……。
違和感で語るのであれば、上下純白のスーツに真っ赤な開襟シャツの出立ちは、この世界でも浮いていて、走り回っていた子どもたちが急に立ち止まり、不思議なものを見るかのような目で勇次を見ていた。
もっとも、現代社会でもどこに行こうが同じ類の熱視線を受けていたため、勇次はすっかりそれに慣れてはいたが。
「――ここがかすみの家なのですー」
かすみに手を引かれて辿り着いた家は、立派な屋敷で門構えが威厳を放ち、如何にも『お金が有ります』と言わんばかりの風格で、表札に大きく『武者小路』と刻まれていた。
「立派な家だな、お嬢ちゃんちは」
「そうなのです? かすみにはよくわからないのです――」
「――おぉ、かすみお嬢様! どちらに行かれていたんですか? 爺は随分あちこちと探し回ったのです――。おや、そちらの御仁は?」
「爺や! 勇次おにーさんだよ。かすみがね、鬼子に追いかけられてる時に、助けてくれたの」
「おぉ、それは有難う御座いました。私、かすみお嬢様の御守りをさせて頂いております、藤原十兵衛と申します。何やらかすみお嬢様を助けていただいたそうで。ささ、奥へどうぞ――」
藤原十兵衛と名乗る老人は七十歳ほどだろうか。薄くなった頭髪を綺麗に撫でつけ、七三にきっちりと分けて整えた物腰の柔らかそうな老人で、その人柄を顔に刻まれた笑い皺が物語っていた。
ブックマーク、感想、評価、レビューなど、よろしくお願いします!