目撃者(前編)
初めて夢見邸からの注文を受けたのは去年の10月。秋晴れと運動会のニュースが流れる土曜日の昼だった。どうして覚えているのかといえば、注文の仕方が奇妙だったからだ。
「お電話ありがとうございます、満腹中華の未来軒です」
電話を取った私の耳に、まだあどけなさの残る、声変わり前の声が届いた。
「もしもし、未来軒さんですか? ランチセットお願いします」
「出前のランチセットご注文ですね? 当店のチラシをお持ちでしたら、番号でお伺いします」
油淋鶏定食とか、青椒肉絲定食とか、読みに戸惑うようなメニューが多くて注文に手間取るからと、ランチセットには1番から18番まで番号が振ってあった――私が物心ついた頃から、変わらないメニューと番号。そういえば小学生の頃「読みにくいなら、番号じゃなくて振り仮名をつければいいんじゃないか」と父に提案したことのある気がする。一度番号をつけると、メニューを変えたくなってもなかなか変えられないじゃないかと言った私に「いいんだよ番号で。セットメニューは定番だから、変える気もないし」と父は鉄鍋をタワシでこすりながら答え、私が大学生になった今でもそのシステムが続いていた。1食650円で、メイン料理に御飯とスープ、漬物とプチデザートまでつく構成はお得感があるからか、昼の注文の大半はランチセットで――電話を受ける立場になってみると、通し番号は確かに楽だ。
「1から、18番」
「1番『と』18番ですね?」
「ううん、1番『から』18番まで」
「1番『から』18番まで、全部、ですか!? 会社でしょうか?」
「いえ」
「1番から18番まで、18食分ということでよろしいですか?」
「うん」
・・・・・・これは怪しい。法事や会議などでたまに大口注文が来ることはあるが、そんな場合は待遇に差をつけないよう、同じメニューで注文が入ることが多い。家族で注文する出前の場合は様々な種類の依頼が来るが、今どき18人家族なんて存在しないだろう。
「少々お待ちください」
電話を保留にして、厨房の父に声をかける。
「父さん、なんか、ランチセット1番から18番まで全部っていう注文が入ったんだけど・・・・・・」
「何だそりゃ? どっかの会社か?」
「それが、家らしい。なんか子供っぽい声」
「いたずらか。まあ一応、住所聞いとけ。それで、前払いだけどいいかって言やあ、電話切れるだろ」
2年ほど前、いたずら電話を真に受けて、10人前の回鍋肉定食を無駄にしたことがある。勿体ないからと両親ともども頑張ったが、母が1.5人前、父が2人前、私は2.5人前でダウンした。「満腹中華の未来軒」と謳っている通り、一つ一つの盛りが他の店より多く、男性でも食べきれない人がいるほどの量なのだ。いたずら電話への怒りと悔しさで詰め込んだものの、お腹が重くて痛すぎて、その夜は回鍋肉に追いかけられる夢でうなされた。もう二度とあんな体験はしたくない。
「もしもし、お待たせしました。お届け先のご住所をお知らせください」
「ねえ、ここの住所ってどこ?」
電話口の声が一瞬遠くなり、上品な声に切り替わって住所を告げた。配達エリアぎりぎりにある高級住宅街だ。もしかしたら、子供がお遣いで電話をかけたがっただけなのかもしれない。
「ランチセット1番から18番まで、18人前ですと、11,700円になります。少々お時間頂戴し、先に前払いで代金を回収させていただきますが、よろしいでしょうか?」
「はい、差し支えございません」
父に確かめてこいと言われ、私は自転車に跨がった。到着した夢見邸は高級住宅街の中にあってもひときわ大きな豪邸で、立派な洋風庭園にコスモスが咲き誇っていた。ペルシャ猫の傘立てを眺めながらドアベルを鳴らすと、小学生くらいの少年がパタパタとスリッパで駆けてきて、一万円札を2枚、私に手渡した。最初に電話をかけてきた声だ。豪邸に騒がしさはなく、広い玄関には二人分の子供靴しか置かれてはいなかった。かかとの潰れたミズノのランニングシューズと、品よくリボンのアクセントがついた女の子の革靴。庭で透かしたお札には、見慣れた福沢諭吉が鎮座していた。
「父さん、ほんとの注文だったよ。お金も受け取った」
当時はまだ街中にたくさんあった黄緑色の公衆電話で家に伝えると、父は大至急料理を準備して待っていてくれた。取ったばかりの免許を活用して、軽自動車で出前を運ぶ。呼び鈴を鳴らすと、玲瓏たる女性の声がした――先程住所を告げた声だ。どんな女性だろう? 同姓なのに、扉が開くのをドキドキしながら待っていることに気づく。
「お届けありがとうございます。お待ちしておりました」
滑らかに扉が開く。声を発した唇は、私が思っていたより随分下にあった――女の子だ! 艶のある声と完璧な言葉遣いから、てっきり大人の女性だと思っていたのだけれど。
「ご、ご注文ありがとうございます。満腹中華の未来軒です」
とっさに漏れた声が裏返って、心臓が早鐘を打つ。透き通るような肌に、パッチリした目、スッと通った鼻筋――可愛いという言葉がこれほど似合う美少女に、私は今まで会ったことがなかった。すっぴんでこれは反則だろう――ファンデーションの乗りが悪くて苦労した朝の洗面所を思い返して、つくづく世の中は不平等にできていると私は苦笑した。
「きたー! 待ってました!」
美少女の後ろから、先程の少年が顔を出す。クラスメートか、はたまた養子なのか? 兄弟だとしたら、あまりにも似ていなさすぎる。少年も平均程度の容姿ではあるけれど、少女の方が可愛すぎて比較にならない。
「たくさんありますでしょう? 私どもも、一緒に運びますので・・・・・・ほら、ゆーちゃんも手伝って」
大きく開かれたドアからの風が、少女の白いワンピースを優雅にはためかせた。玄関ホールの大理石に、少女の革靴がコツコツと音を響かせる。ゆーちゃん、と呼ばれた少年が、使い古されたランニングシューズをつっかけてついてきた。大きな家にほかの人影はなく、広い玄関の大理石にも、それ以外の靴は置かれていなかった。
「ひょっとして、早く持ってきすぎちゃいましたか?」
「ううん、大丈夫! お腹空かせて待ってたから」
ほかの16人が到着する頃に届けた方が、できたての温かい料理を食べられてよいのではないか、と言外に匂わせたつもりだったが、私の意図は少年に伝わらなかったらしい。
「わぁ、思ったより大きいね。これならピザは要らない気がするよ。値段も安いし、毎週これでもいいんじゃない?」
八宝菜定食のトレイを運びながら少年が少女に呟いて、驚くべきことに、それから本当に毎週、いつも決まって土曜の昼に、夢見邸からは定食の注文が来ることになった。1番から18番まで全部という注文の仕方も相変わらずだったが、2回目以降は料金後払いで承った。2人以外の人と豪邸で出会うことはなかったが、夕方玄関先まで皿を回収しに伺うと、高く重ねられた食後の皿とお盆の上に、いつも可愛いメモ用紙が置いてあり、女の子らしい丸文字で「ごちそうさまでした」と記されていた。
2か月ほどそのような注文が続き、私は夢見邸の道順はもちろん、電話番号さえも覚えてしまった。いつもお世話になってるお得意様だからと父がサービスで肉まんをつけたら、それが気に入られたのか、次の週から肉まんも注文されるようになった。はじめは2個、翌週は4個、その次の週の注文は7個で、その次の週は10個――少しずつ多くの人に、父さんの肉まんが受け入れられているようで嬉しかった。
さらにサービスとごま団子をつけたら、こちらも翌週からごま団子の注文も増えた。定食18人前と肉まん14個、ごま団子20個を、私は吹雪の中、夢見邸に届けた。美少女も頬を寒さに赤らめながら、一緒に玄関先まで料理を運んでくれた。家は豪邸で、着ている服も質の良い生地ばかり――どこからどう見てもお嬢様なのに、少女は出前を一緒に運ぶのが当然とばかりに、吹雪の中を車まで何往復もしてくれた。
「ねえ、次はごま団子の注文、いくつ来ると思う?」
翌週から私は父と、夢見邸からどんな注文がくるのか、当てっこを始めた。ごま団子が気に入ってもらえたなら、注文の数は増えるはずだ。
「ひとり2つで、36個じゃないか?」
「4人くらいはゴマが嫌いな人がいて、28個とかじゃないかな?」
注文は私の予想に近く、定食18人前と、肉まん15個、ごま団子30個だった。翌週は定食18人前と、肉まん16個にごま団子33個、次の週は定食18人前と、肉まん16個にごま団子38個。誰かが余計に注文するためか、肉まんもごま団子も、定食の倍数にはならなかった。私は父との賭けに勝ったり負けたりしながら、せっせと夢見邸に注文を運んだ。運ぶ時間がどんなに遅くなっても、少年と美少女以外の人物には会わないのが謎だったが、あの頃の私はまだ、夢見邸で大人数の会合が開かれていると思っていた。
謎をとく最大のヒントは、桜が散る頃のとある注文にあったはずだった。初めて土曜日以外に注文のあった日だ。たしか水曜日の夜だったと思う。
「お電話ありがとうございます、満腹中華の未来軒です」
「いつもお世話になっております・・・・・・夢見ですが・・・・・・今日も出前って・・・・・・やっていらっしゃいますか?」
何度となく聞いた綺麗な声が、少し浅い息で途切れ途切れに聞こえた。体調でも崩したのだろうか?
「やっては、いますが・・・・・・お体、大丈夫ですか?」
「え? ええ・・・私はまだ・・・大丈夫です・・・」
声は一瞬、戸惑ったように途切れかけ、間に浅い溜息を挟んで「大丈夫です」と続けた。誰かに言い聞かせるような、大丈夫ではなさそうな雰囲気の「大丈夫」だった。
「大丈夫ですので・・・そしたら・・・麻婆豆腐定食を1つ・・・お願いします」
「1つ、ですか?」
いつも大量の注文が来るのに慣れていた私は、逆に普通の注文へ面食らった。頭で考えるより先に、いつもの台詞が口をつき、私はそのことを語った後でひどく後悔した。
「恐れ入りますが、当店の出前は2人前からとなっておりまして・・・」
「2人前・・・ですか・・・」
心が折れそうな溜息が受話器越しに聞こえ、しばらくの沈黙があった。
「あ! でもっ! 夢見さまはお得意様ですので、1人前でも喜んで手配させていただきます。麻婆豆腐定食ですね・・・」
お得意様が、体調を崩して出前を欲したのに応えられないようでは、料理屋失格である。もしも父に怒られたら、自分の小遣いで穴埋めしよう。
「いえ・・・・・・原則は原則ですし・・・・・・ちょっとまだ・・・・・・あと2人前は厳しいので・・・・・・残してしまうと勿体ないですし・・・・・・また今度にします・・・・・・ありがとうございました・・・・・・」
そう言って途切れがちな電話は切れてしまった。こちらからかけ直すわけにもいかず、私は土曜日までの数日間を悶々と過ごした。夢見さん体調大丈夫かな? 土曜日に電話が来なかったらどうしよう・・・?
しかし、そんな心配をよそに、土曜日はいつも通り注文があった。定食18人前と、チャーハン2人前、肉まん28個に餡まん12個、しゅうまい22個にごま団子40個、タピオカドリンクが4杯。
「先日は、お力になれず、すみません」
届けがてらに謝ると、美少女は相変わらずの低姿勢で、こちらこそ原則を存じ上げずにお電話してしまい申し訳なかったですね、と笑ってくれた。
体調は戻ったのか問いかけようかと思ったけれど、見るからに元気そうだったのでやめておいた。肌つやも血色もよく、肉付きもよい。そういえば初めて出会った頃は、手足の細い華奢な少女というイメージだったけれど、この頃は全体に丸くなったような気がする。顔周りは今でもすっきりしていて、太っている印象はないけれど、肩や二の腕、太腿などは女性らしい丸みを帯びて、胸元も上向きに膨らみはじめているのが分かる。ふんわり、ふっくら、といった印象の肢体は、見るからに健康そのものである。一方少年はというと・・・・・・こちらは少し太りすぎではないだろうか。出会った頃も体格のよいガキ大将タイプに見えたけれど、頬もお腹もこの頃はすっかり肥えて、ぽってりした脂肪がつまめそうだ。小児期の肥満は良くないと、機を見て誰かが教えてあげた方がいいかもしれない。
「夢見さんのお宅になら、1人前から何度でもお運びしますから、お困りの際はいつでもお声がけくださいね」
帰り際に手を振ると「そのうち2人前お願いできるように頑張ります」と、美少女からは、何やら不思議な返事が返ってきた。
その言葉通り、平日に2人前の注文があったのは、ゴールデンウィーク明けだった。麻婆豆腐と中華丼を注文したのは美少女の声だったが、呼び鈴に応じて出てきたのは少年だけだった。玄関には相変わらず、少年と美少女のものらしき靴、2足だけがあった。
少年の歩き方が、一見しておかしい。がに股で前屈みになりながら、お腹をさするようにしてゆっくりと歩いてくる。お腹が・・・・・・お腹が・・・・・・大きい! 脂肪に圧され、元から余裕のなかったであろうTシャツを押しのけて、大きなお腹とつぶれたお臍が覗いていた。たった数日前に出会った時より、明らかにお腹が大きいのが分かる。大食いタレントが時々、食後のお腹を見せることがあるけれど、胴体が丸ごと前に飛び出しているというか、胃袋が全体に張り出しているというか・・・・・・そんな感じの膨らみだった。私が昔、店の定食2.5人前を食べ、苦しくて夢の中で回鍋肉に追いかけられたときですら、お腹はここまでは膨らまなかった。
「・・・・・・どうしたの?」
「いや、どうもしてないっすよ」
私の質問の意図を、少年は理解できずにいるようだった。
「どうしたの、そのお腹?」
「・・・・・・夕食を手伝っただけっすけど?」
少年は質問に困惑したように答えた。
「夕食を手伝う? ・・・一緒に料理作ったの?」
「ううん、一緒に料理食べたんです」
「へ?」
「雫さんのママ、料理たくさん作っちゃうから、雫さん一人じゃ食べきれなくて、僕が手伝ってあげてるんです」
「それで、お腹がそんなになるまで食べたの?」
「大した量じゃないっすよ」
「いやいや、大した量だし・・・・・・食べ過ぎは身体によくないよ。もしかして、これも食べるの?」
「ううん、これは僕の分じゃないです。はい、それじゃあ、お金」
お小言は余計だと言わんばかりに、少年は千円札を二枚手渡して釣り銭を受け取ると、お盆を持ってよたよたと廊下の奥へ去っていった。この時点でヒントはおおよそ揃っていたはずなのに、私はこの日もまだ、廊下の先であんなことが起きているなんて可能性に、少しも思い至っていなかった。あの日――美少女が一人で注文を受け取りに玄関先まで出てきたあの日まで、私は謎を抱えたまま、夢見邸に出前を届け続けた。