助手の貢献
「うーん……ごちそうさま……」
「えー。もう終わりー? ゆーちゃんは情けないなあ……(笑)」
ふーっ、と息を吐き出した俺を、向かいに座る雫さんが茶化す。
雫さんが食べきれない夕食を俺が手伝うようになって、もうすぐ2年。料理研究家であられる雫さんのお母さんが収録や料理教室でいない日に合わせ、毎週のように訪問していた俺は、いつのまにか「悠太くん」ではなく「ゆーちゃん」と呼ばれるようになっていた。
学校でのトゲトゲした声とは打って変わって、ネコのように甘い声で茶化してくるのは反則だ。それが文句なしの美少女の口から漏れてくるのだから、なお困る。この半年で少しぽっちゃりしてきた感もあるが、むしろ健康的に女の子らしく、つくべきところに肉がついてきたと言うべきだろう。上向きに膨らみ始めた思春期の胸の上、大きなUネックの首元に、鎖骨の陰影が辛うじて見えるかどうかという程度の肉付き――真っ白できめ細やかな餅肌のツヤが眩しい。
「そんなこと言われても、もう一口も入らないし……」
もはや定番となったやりとりであるが、何と答えたらいいのか分からないから、俺はいつもそっと目を逸らして自分のお腹をさすることにしている。椅子に寄りかかり、背筋を反らすとお腹が強調される。水色のカッターシャツは斜めに不自然な皺が寄り、ボタンが辛うじて止まっている程度で、下から黄色いTシャツが覗いてしまっている。小学5年生男子の華奢な胸板の下、鳩尾からベルトのあたりまでという一部分だけが不相応に大きく、寸胴に膨らんでいるのは不思議な光景だが、それが自分の胴体であることは尚のこと不思議である。
2年前に初めて雫さんの家へ招かれたときは食べ過ぎて気絶してしまったけれど、そのときもこんなにお腹は大きくなかった。この2年で12 cmほど身長が伸びたことを差し引いても、我ながらずいぶん大食いになったものだと思う。まだ量っていないから分からないけれど、今日もおそらく4kgくらい食べているんじゃないだろうか。雫さんのせい……いや、雫さんのおかげである。雫さんの受け売りではないけれど、雫さんのお母さんの試作料理は、本当にどれも、処分するのが勿体ないと思わせるくらい美味しいのだ。
「うそ。一口は食べられるでしょ? ……まあしょうがないわ、あとは私が全部食べてあげる」
雫さんの発言に余裕があるのは、このところ毎日、お母さんの料理を完食できているからだ。
「最近、余裕だね……」
「それはまあ……ゆーちゃんのおかげかな。先週は私、一度も残してないの」
「……それはすごい……」
ゆーちゃんのおかげ――というのは、俺が沢山食べられるようになったことを意味するのではない。俺のとある発見により、雫さん自身がさらに沢山食べられるようになったことを意味する。もちろん2年前より多少は大きくなった俺の胃袋だって、残飯の減少に幾許かの貢献はしているはずだが、この2年――特にこの半年ほどの間に、雫さんの胃袋が遂げた成長と肥大化は俺の比ではない。
「残りのお皿、こっち寄越して……」
雫さんがこちらに手を伸ばそうと身を乗り出し、ガタッとテーブルが揺れた。驚異的に大きく張り出したお腹が、テーブルにぶつかったのだ。二人で全メニューの味見を終え、アンケート用紙のようなフィードバックを記載したあと、雫さんの喉は少しもペースを崩すことなく嚥下を続けていたのだから、その先の腹が膨れるのも当然である。俺より一口一口が大きいせいか、最初から雫さんの側の減りは早いし、俺のペースは途中で落ちるから差は開く一方なのである。
「いいよ、俺のほうが身軽だし、俺がそっち持ってくから……」
「サンキュー」
空になった皿を重ね、残った料理を綺麗に盛り直して、皿の数を減らす。俺のお腹も張っているので、かがむのは辛い。必然的に大きな食卓を回り込んで渡す格好になるので、往復を減らす必要があるのだ。俺の側にも皿の山ができたが、雫さんの方には俺の3,4倍近い山ができている。
「はい、これ……」
片手に1つずつ大皿を持って、ゆっくりと食卓を回り込んだ俺には、今までテーブルの陰に隠れていた雫さんの全貌が見えた。クラスでもわりと早めに二次成長期を迎え、この2年で20cm近く背が伸びた雫さんの、ふっくらとした女の子らしい丸みを帯びつつある肩周りや、ふんわりとむっちりの中間にありそうな二の腕などは平均的な思春期女子のそれであるが、巨大なお腹を支えてきたためか、太ももの肉付きは平均よりおそらく太く、張り出した骨盤の横幅はかなり広い。大きく股を開いた状態で腰掛けているので、柔らかそうな太ももの肉が、むにっと変形しているのも見える。そしてその上に、特異な曲線――食物をその身へ大量に納めるために特化した胃袋の描く曲線が、堂々と提示されているのである。
人間のものと、にわかには信じがたい――写真なら間違いなくPhotoshop加工と疑ってかかりたくなるような曲線は、しかし間違いなく雫さん自身の内臓によるものだ。大きくなりすぎた胴回りのせいで臍のあたりに引っかかっているTシャツの、下から覗く白い肌と青く浮き上がった静脈、光る汗、オリオン座の三つ星のように並んでいる黒子、雫さんの浅い呼吸に合わせて上下するそれら全体の生物的な質感が、これが合成写真でないと全力で証明していた。
「どうしたの? そんなところで止まって……?」
雫さんが次の一皿に手を伸ばしながら、俺の方を振り向く。その子鹿のような表情に、俺の心拍数は跳ね上がった。
「いや……な、何でもない……これ、先に流しへ持ってって洗っとこうか? 俺、先に食べ終わったから……」
「ほんと? サンキュー、いつもありがとねー」
先に食べ終わった方が皿を洗うという決まりがあるわけではないけれど、いつも皿を洗うのは俺の役割になっていた。先に食べ終わった方が洗うでも、いつも俺が洗うでも結局は同じことだ。雫さんが俺より先に食事を止めることなど一度もなかったからである。2年前から1年前までの1年間におけるキャパシティ増加量なら雫さんも俺も大差なかったのかもしれないが、俺が8ヶ月ほど前にとある発見をして雫さんの生活が変わってから、俺の増加量は雫さんの足下にも及ばない。
俺が発見したのは、雫さんの食べる量が、月曜日から金曜日にかけて増えるようだということである。それまでの雫さんは、お母さんの料理をできるだけ残したくないと、お母さんの料理以外は極力口にしない生活を送っていたそうなのだ。雫さんのお母さんは、全国津々浦々で料理教室を開催するという冠番組を持っていて、毎週末は食費を置いて出張に出かけてしまう。その間雫さんは家でただ一人、ほとんど何も食べずに過ごしていたらしい。
お腹をめいっぱい減らしておいた方が沢山食べられるというなら、月曜日は一番たくさん食べられる筈である。それなのに雫さんはしばしば「月曜日はしんどい」と口にしていた。……どうしてだろう? そんな素朴な疑問に基づき、去年雫さんの貯金(毎週末の食費を使わないので、貯まる一方だった)を少し使って高性能な体重計を買い、夕食前後に体重を量ってみたのだ。すると、雫さんが一食に平らげることの可能な食べ物の量は、月曜日から金曜日にかけて少しずつ増え、断食状態にある週末の間に元の値付近へ戻ってしまうということが分かった。
調べてみると、大食いタレントたちも、大会前はひたすら大食いして「たくさん食べられるような胃を準備する」と言っている。しばらく休んでいた運動やストレッチを再開するのが辛いように、胃も筋肉でできているので、しばらく大食いしないでいると縮んだり、伸びにくくなったりしてしまうようだ。そこで週末も出前を取ってみることにしたところ、それまでも相当な大食い少女であった雫さんが、驚異的な大食い少女に成長したというわけである。
「あのさー……」
「ん、どうした? 聞き取れなくてごめん……」
流しの水音で声が聞き取りにくかったので、水を止めて質問を返す。
「ふと思ったんだけど、今日も出前、頼んでくれない?」
「え!?」
「お寿司18貫とかでいいから……」
「いやいやいや……え!? だって今日は土日でも金曜でもないよ? お母さんの作ってくれたご飯だってまだ残ってるし……」
「でもさ、私もう、ゆーちゃんが手伝ってくれなくても、今週お母さんのご飯完食できてるのね」
雫さんのお母さんは、仕事で多忙なせいか、俺が夢見家に出入りしていることをまだ知らない。だから別に、俺の来る日だけご飯が多いということもない。つまり雫さんは俺の来ない日には、今日俺が食べた分も含めて完食しているということなのだ!
今でも充分に重さを感じる自分の胃袋の緊迫感と張り、苦しさを思って俺は気が遠くなりそうになった。既に巨大なタンクの如く、驚異的な大きさに膨らんでいる雫さんの胃袋が、さらにもう一回り、今俺が感じている苦しさの分だけ大きく膨らむということに、俺は内心、興奮を覚えた。そのとき皮膚はどれだけ硬く張り詰め、鳩尾の下はどれほど大きく張り出し、臍の傍にある三連の黒子はどれほど遠くに離れるのか! それを間近で見たい! その膨らみに触れてみたい!
一方でそのような欲求に身を滾らせつつ、他方で、今まで感じたことのなかった疎外感と恐怖――もはや自分は、雫さんに必要とされないのではないか、という疎外感と恐怖――も、急速に俺の中で首をもたげた。
「つまり、俺が食べるのは余計だと……」
「別に、そういうことを言ってるんじゃないんだけど……ちょっと、実は物足りなくなってきちゃったって言うか……お腹いっぱいの方が気持ちいいな、って思うっていうか……」
そっとお腹の張りを確認するかのように一方の手で胴体をさすり、もう一方の手に持ったフォークで器用に口元へ運んだ大きな牛肉を頬張りながら、こちらを振り返った雫さんはやはりとても可愛くて、本来俺なんかと釣り合うような人じゃないと思えた。その思いが、俺を更に卑屈にさせた。
「いいよそしたら、俺もう手伝わないから……」
「違うの、そういうことじゃないの。ママの料理は今よりずっと多い日もあるし……ほら、クリスマスディナーなんかすごい量だから、ゆーちゃんも私も、もっと沢山食べられるようになっておかないといけないって思うの。」
「クリスマスディナーは、ママンと一緒だろ? 俺、関係ないじゃん」
「違うの……そのうちきっと……」
「違わない! いつだって……今だって俺は紹介されるの構わないけど、いつだってなんだかんだ理由をつけて、俺は君のお母さんに会わせてもらえていないじゃないか!」
「違うの……誰かが来るなんて言ったら、ママは張り切ってもっとたくさん料理作っちゃうに決まってるの! それで、作った料理残すと、すごく悲しむの……私ママに……ママに悲しんでほしくないから……」
涙と泣き顔で聞き取れず消えた語尾は「こんなに頑張って食べ続けてきたのに……」だっただろうか。ごめんと言いたかったし、言えればよかったのに、当時の俺は素直になれなかった。膨らむにいいだけ膨らんだ巨大な胴を白い腕で抱え、緊満した腹の皮膚を震わせながら、雫さんはしゃくり上げるように泣いた。俺はしばらく佇んで、流しの脇にあったキッチンペーパーを、無言で1枚手渡した。
雫さんは左手の甲で涙を拭うと「ありがとう……」と言った。光る涙と純粋さが、俺には眩しかった。