はじめてのディナー助手(後編)
「ねえ、だいじょうぶ? だいじょうぶ?」
はっと気がつくと目の前に、整った美少女の顔があった。長いまつげのふもとの大きな目が二つ、心配そうに俺のことを見下ろしている――雫さんだ。
何が起きたのか、頭が一瞬混乱して、すぐに猛烈な腹痛が襲ってきた。お腹が……お腹の皮が痛い。食べ過ぎ? そうだ、俺は食べ過ぎたのだ。先程までの出来事を、俺は必死に思い出そうとした。
料理研究家の愛娘で、クラスメイトの可愛い女の子、夢見雫さんの家に招かれたことはよく覚えている。お洒落な傘立ても、立派なダイニングキッチンも、大量に試作されたゴーヤチャンプルも、途中まで美味しく味見をしながら、二人で一番美味しいメニューを選んだことも。それで……そうだ、俺がお腹いっぱいになって、雫さんが一人で、残った沢山の料理を残すまいと奮闘していて……俺は雫さんのご飯を盛ったり水を酌んだりしていたんだけど……やっぱり手伝わなくちゃいけないと思ったんだ。だって雫さんが、とても苦しそうに見えたんだもの。
椅子に浅く腰掛けて、荒い呼吸をしながら、最初よりずっとゆっくりしたペースで、小さな一口一口を、パンパンの胃袋が待つ胴体の中へ、必死に噛んでは飲み込んで、また少し噛んでは飲み下して……。まるで何かと闘ってるみたいだった。そのうち頻繁に立ち上がるようになって、テーブルに細い両腕をもたれかけさせながら、猫が伸びするときみたいに背筋を何度も伸ばして……「こうすると、お腹にスペースができるから、また楽に食べられるようになるんだよ。知ってた?」って健気に笑うんだ。
でも、白くて細い腕に抱えられ、華奢な肋骨までのラインから飛び出しているお腹は、どう見ても限界いっぱい、いや、とうの昔に限界なんか超えているんじゃないだろうかってくらいに張り出していて、雫さんの嚥下も全然楽そうなんかじゃなかった。大きな瞳を潤ませて、大きすぎるお腹をさすりながら、それでも雫さんは食べるのをやめようとしなかったんだよ。
俺は何度も言ったんだ「もう止めなよ。止めようよ。ねえ、どうしてそんなになってまで、食べようと思うの?」って。そしたら何て返ってきたと思う?「だって、せっかく作ってくれたのに……残したらお母さんにも、農家の人たちにも申し訳ないもん……それに、今日は悠太が手伝ってくれたおかげで、なんだか食べ切れそうな気がするんだ。だってほら、あとたった4皿、しかも、どれも半量だよ……」そう言って、さっきより大きな一口を頬張って、一瞬微笑んだと思ったら、不意に上を向いて目頭を押さえて……たぶん頭の中ではまだ笑顔で食べ続けたいって思ってるんだけど、身体の方が先に悲鳴を上げたんだと思う……反対側の目から涙がひと筋流れ落ちていくのを見たとき、俺の中でもスイッチが入ったんだ。
「やっぱり俺も、雫さんのお母さんの料理おいしかったし……さっきから雫さんが美味しそうに食べてるのみたら、またお腹空いてきちゃった。残り半分、食べてもいい?」あとたった4皿と雫さんは言ったけど、それは最初にあった26皿を基準にするから「たった」4皿と言えるだけの話で、あらためて考え直してみれば、大人用1人前のゴーヤチャンプルが4種類、各半量ずつあるということは、その時点でも大人2人前は十分に残っていたということなのだ。雫さんも俺も小学校3年生なのだから、本来は空腹状態の胃にとってさえそれだけで十二分な量だったはずで、それを俺は、既に普段の4倍程度を平らげた、満腹状態の胃の中へ押し込もうとしたわけである。格好いいところを見せようと、最初の数口は勢いよく頬張ったけれど、すぐに限界が来て、そこから先は俺も遅々として進まなかった。そうこうしているうちに、雫さんが1皿目を食べ終えて、俺は遅れるわけにはいかないと、ゴーヤチャンプルを水で流し込もうとして……そしたら突然、お腹がものすごく痛くなって……目の前が暗くなったんだ。そうだった、俺はつまり、食べ過ぎたのだった。
「ねえ! だいじょうぶ? だいじょうぶ?」
再び雫さんに焦点が合った。心から誰かのことを心配している、慈愛に満ちた瞳だ。その誰か――は、俺? 俺はなんて幸せ者なんだろう? 俺は込み上げてきた吐き気を必死で押しとどめた。雫さんがこれだけ大切に思っている、お母さんの料理をもし吐いてしまったとしたら、俺は一生嫌われてしまうと思った。俺はお腹を抱えるような体制で床に横向きに倒れていて、それを蛙のように四つん這いになった雫さんが、すぐ近くで見下ろしているのだった。
「ごめんね……私のお腹が情けないから……悠太くんに無理させちゃって……」
普段の4-5倍食べただけで、こんなにもお腹が張って気を失うほど痛い俺の、さらに4-5倍近い量をその華奢な身体に詰め込みながら、それでも雫さんは自らのお腹を情けないと言い、俺の心配ばかりをしてくれていた。雫さんがそっと、俺のTシャツを捲り、整ったピンク色の爪が並んだ白く優雅な指で、俺の腹を撫でる。鳩尾のあたりがポコンと飛び出しているような、お腹の皮膚に触れられた瞬間、背中からゾクッとするような心地よい刺激が入って俺はドキッとした。
「いや……こちらこそ……情けなくてごめん。てか、雫さんこそ……大丈夫?」
動揺を悟られぬよう、雫さんへ話を戻す。雫さんが脚を開いて蛙のような四つん這いになっているのは、ひとえに脚の付け根までみっちりと詰まりきった胃袋が邪魔してつっかえるからだ。お腹の左上の方ばかりが膨らんでいる俺とは対照的に、肋骨のすぐ下から両脚の付け根まで、雫さんの胴体は満遍なくみっちりと張り出していた。代謝がよくなっているのだろうか、よく見ると雫さんは汗だくで、食前ダボダボだった白のTシャツはピッチリと身体に張り付いている。中央にプリントされた猫の顔は、横長に大きく引き延ばされてしまっていた。
「え、私!? 私はまだ、大丈夫よ。たくさん食べるの、慣れちゃってるから……」
慣れちゃってるから――雫さんは確かにそう言った。きっと雫さんは、もっとずっと小さい頃から人知れず毎日のように、少しでもお母さんの料理を無駄にすまいと孤軍奮闘してきたのだろう。その結果として酷使され続けた胃の壁は小学三年生のそれとは思えぬほどに厚くなり、胃は他の内臓すべてを押しのけて巨大に膨らむほど肥大したのだ。腹の皮膚も、その下の腹筋も、おそらくは骨盤さえも、日常的にストレッチがかかることで大きなキャパシティに貢献し、目下最大の障壁は、ギチギチに伸ばされた白のTシャツであるかのように思われた。
「……おいしすぎて……食べ過ぎちゃったみたい」
おどけて見せた俺に、雫さんは柔らかな微笑みをくれた。
「ありがと……お母さんの料理を美味しいって食べてくれて……私、とても嬉しい。でも、もう無理しないでね。私、あとは一人でも十分食べられるから……」
「えっ? でも……お腹が……」
引き延ばされたTシャツは、張り詰めた白い皮膚が今にも透けて見えそうだった。
「これ? 大丈夫よ。自分のお腹のことは、自分が一番よく分かってるから……」
そう言って雫さんは前屈みがかった膝立ちになると、汗で張り付いたTシャツをゆっくりと上に捲っていった。カチカチになっているであろう胴体は、もはやほとんど変形せず、Tシャツを擦り上げるたび雫さんは軽い喘ぎ声を発した。真っ白な餅肌が、汗で照り輝いていた。ただTシャツをお腹の上まで捲り上げる、それだけの動作のはずなのに、余りに非現実的な胃の大きさと、張り詰めた白い皮膚の美しさとが相まって、一種儀式のような神聖さを醸し出していた。
肋骨と胸骨のすぐ下から、分不相応に飛び出している膨らみは圧巻だった。胴体全体を使って膨らみながらも、胃袋としての原形は確かに残されているようで、単純な球形ではない。巨大な洋梨か瓢箪のような、生物的な曲線の艶めかしさがそこにはあった。下腹部を中心に膨らむ妊婦と違って、どちらかというと上腹部が中心的に膨らんでおり、肋骨が左右に思い切り押し広げられて、背中まで膨らんでいるようにも見えた。頂上は思いっきり裏返った臍のわずかばかり頭側にあり、尾根は左上腹部から右下腹部に向かってなだらかに続いているのだった。臍のすぐ左下にはオリオン座の三つ星のような可愛い黒子が並んでいて、星々の間の間隔は食前よりずっと離れてしまっているように思われた。袋の形をはっきりと主張している胃袋と、その中に詰まった二十余人分のゴーヤチャンプルと、その合間に押し込まれた味見前の水と、何度も丼に盛られた米の粒一粒一粒までもが、今にも透けて見えそうだった。
「でも、汗だってぐっしょりだし……」
「大丈夫! いつも食事の後半はけっこう汗かくんだー……あ、もしかして私……汗臭かったりする?」
巨大に膨らみきって臍の裏返ったような生腹を堂々と晒しておきながら、汗臭さについては普通の女の子のような恥じらいを見せて小声になる雫さんを、俺はなぜだか分からないけれど、いっそう可愛いと思った。
「ぜ……全然! でも、冷えちゃう前に着替えた方がいいかもしれないって思って……」
可愛さに動揺してしまった俺は、少し言葉が揺らいだに違いない。雫さんはおそらくそれを、別の意味に解釈したようだ。表情が少し、固くなった。
「分かった……そしたらもう、今日はこんな時間だし、あとは私ひとりで食べられるから、悠太くんも気をつけて帰って……私、シャワー浴びて、着替えるから……悠太くんも汗冷えないうちに、早く帰って……」
半ば追い出されるように、俺はランドセルを背負うと、重いお腹を抱えてよたよたと夢見家を後にした。道すがら、残っていた1皿弱のゴーヤチャンプルの行方と、雫さんの腹部が織りなす曲面と、その曲面を滑らかに流れていったであろうシャワーの流れとを頭の中で何度も何度も想像した。お腹はいっぱいなはずなのに、なぜか唾液が止まらなかった。