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はじめてのディナー助手(前編)

「おじゃま…しまーす…」


想像以上の豪邸に、玄関を通る俺の声は尻つぼみになった。門から玄関までがちょっとした英国庭園のようになっていて、よく手入れされた薔薇が6月の空に咲き誇っていた。ペルシャ猫を模った趣味のよい陶器が傘立てになっていて、俺はその中に入る自分のビニール傘を恥ずかしく思った。


「すごい家だね…何人家族?」


何気ない問いのつもりだったが、雫さんは寂しそうに「ふたり。お母さんと二人で住んでるの」と目尻を下げた。


「ごめん…なんか悪いこと聞いたかも……」


「ううん、だいじょうぶ。もう慣れたから……」


そう答えつつ広い玄関で革靴を揃える雫さんは、全然寂しさに慣れていないような顔をしていた。決して短いとは言えない沈黙の時間が流れた。俺は黙ってボロボロの運動靴を脱ぎ、雫さんの磨き上げられた革靴が汚れぬよう、少し離れた場所に揃えた。


「そ、そんなことよりさ! この先がダイニングキッチンなんだけど、きっとびっくりすると思うよ! 3、2、1!」


雫さんが明るさを無理矢理繕ったような声でカウントダウンをし、廊下の先の扉を開けた。


確かに、これはすごい。


先程の沈黙と気まずさを打ち消して余りある、立派な空間と驚きがそこにあった。扉の先は一流ホテルの厨房を丸のまま切り取ってきたかのような、最新鋭のダイニングキッチンだったのだ。白を基調とした作業台に、業務用冷蔵庫や最新の調理器具の銀色が光り輝いている。パン屋にあるような大きなオーブンが2台、一升以上炊けそうな炊飯ジャーが3台、電子レンジが5台、大口のガスコンロに至っては1、2、3……10口もあった。部屋の一角に大きな食卓があって、写真館で使うようなストロボライトや反射板が並んでいる。


呆然と固まった俺を見て、雫さんは心から嬉しそうに笑った。


「すごいでしょ? お母さんがここで、新しい料理を開発するの」


「すごいね……」


「それで、それを味見してアドバイスするのが、私の役割なわけ」


雫さんは両手を腰のあたりに当て、得意そうに胸を反らせた。タイトめなスラックスとボタンダウンで、すらりとした身体のラインが強調される。


「そしたら私、ちょっと着替えてくるから、先に手を洗って、これ読んで待ってて」


冷蔵庫にマグネットで固定されていたA4用紙数枚を手渡して、雫さんが軽やかに階段を駆け上がっていく。手渡された紙は全部で4枚あり、夕食メニューの解説のようだ。レンジ再加熱でも美味しい作り置きご飯シリーズの、7月24日午後にある10分枠――プロデューサーからの要求は、ちょっと変わったゴーヤチャンプル――1枚目にはレシピ開発のコンセプトが記されていて、2枚目がそれらの保存場所と温め方・盛り付け方、3枚目と4枚目が感想を書き込むアンケートのようになっていた。アンケートは緻密なプロ仕様で、要求の非常に高いものだ。


「お待たせー」


弾んだ声に振り返ると、猫の顔が中央に大きくプリントされた、抜け感のある白のTシャツ姿で雫さんが立っていた。大人用のものなのか、随分とサイズが大きく、だぶついている。ドラマなんかで、彼氏の大きな服を借りて着てみたヒロインが時々出てきたりするけど、まさしくそんな感じだった。大きなUネックの間から鎖骨の陰影がしっかり見えて、俺はなんだかドキドキした。


「いつも家ではこんな感じなの?」


「うん、お母さんがお仕事でいないときは、作り置きメニューの推敲なの。もちろん、できたての方がずっと美味しいんだけどね……」


僕は服装について訊きたかったのだけれど、雫さんからの回答はメニューについてのものだった。


「じゃあ、どんどん写真撮ろうか」


「写真?」


「そう、撮影本番の前に『こんな感じですよ』って示す、盛り付け例の写真が必要なの。ごはんの盛り付けと撮影は私がやるから、悠太はレンジで温めるのをお願い。500Wで2分だってさ」


業務用冷蔵庫の重い扉を開けると、沢山の皿が所狭しと並んでいた。


「ええと……どれを温めればいいのかな?」


「どれって……全部よ、全部」


雫さんは当たり前のように言い放ったけど、皿は少なく見積もっても20は下らない……5台のレンジをフル稼働しながら、数えたら26皿あった。それぞれに少しずつアレンジの違うゴーヤーチャンプルらしきものが入っている。決して小盛りではない。定食で言うところの1人前か、1.5人前程度の量はあるだろう。


俺は順番を間違えぬよう、食卓に並んだランチョンマットの左上から、温め終えた皿を並べていった。雫さんはそれぞれにご飯茶碗と箸・箸置きを添えて、慣れた手つきでライトを調整すると、一眼レフのデジカメで写真を撮っていく。撮影作業を終えた食卓には、26食分のゴーヤチャンプルが並んでいた。


「今日は二人だから、ご飯茶碗がもう一ついるね……あ、コップも2つか」


雫さんは先ほど撮影に使った普通盛りの茶碗を俺に寄越し、どこからか大きな丼を持ってきて山盛りの白米を盛り付けた。蒸留水を注いだコップには、蜂蜜をなめている可愛いクマの絵が描かれていた。


「いただきまーす!」


二人並んで椅子に座り、手を合わせる。どの皿からもおいしそうなにおいが漂っている。俺は一番近くにあったミニトマト入りゴーヤチャンプルを手に取った。


「あ、おいしい……」


爽やかなミニトマトの甘みと淡い酸味に、ゴーヤの苦みが意外なほどマッチして、これはごはんが進むし、いくらでも食べられそう……


「ちょっと! 私の分も残しといてね! これから食べ比べなくちゃいけないんだから!」


気がつくと皿の半分ほどがなくなっていて……俺は雫さんに怒られてしまった。


雫さんは何やらメモに書き込みながら、数口ずつそれぞれの皿から味見を繰り返している。26皿あると、遠くの皿には手が届かないので、頻繁に立ち上がっては手元の皿を交換していた。俺も遠くの方から皿を持ってきて、ミニトマト入りゴーヤチャンプルの皿をもとの位置に戻した。次の皿には何やら黒いものが入っていて、なんと、ひじきだった。これまた意外とおいしい。


そんなこんなで8皿ほどを味見したところで、俺の茶碗のご飯はなくなった。我が家の普段の夕食程度には食べているが、味がよいのでまだまだ食べられそうだ。


「ごはんおかわりしてもいいかな?」


「もちろん。そこに一升炊いてあるはずだから、好きなだけ盛って……ついでに、私の分もちょっと追加してきてくれない?」


真剣な表情でアンケート用紙に意見を記入しながら、雫さんが丼を手渡す。山盛りだったご飯は、いつの間にか3分の2ほどが消費されていた。升という単位を友人宅の台所で聞くことになるとは思わなかったけれど、確かにこの量のおかずにはそのくらいのご飯が妥当なのかもしれない。雫さんはちょうどすべての皿を一巡したところのようだ。


「まだちょっと残ってるみたいだけど……どのくらい盛ればいい?」


「どうせまたすぐ足りなくなるから、もちろんさっきと同じくらい山盛りで。だんだん立ち上がるのしんどくなってくるから、助手がいるのは嬉しいな。悠太は何時頃まで居られる?」


「何時まででも!」


一瞬向けた微笑みの可愛さに男子を動かす大きな力があることを、雫さんは自覚しているのか、いないのか。俺は丼に大盛りのご飯を盛り付けて、できる限り優雅に雫さんの前へ給仕した。


「これと、これと……このあたりが望みありかな……いただきまーす!」


雫さんは8皿を選び出して、再度手を合わせて食べ始める。今度は口直しのためか、皿を変えるたび水を口にしてゆすいでいるようだ。このように少しずつ有用なレシピを絞り込んでいくらしい。雫さんのように優秀な味覚を持ち合わせてはいない俺には、どの皿も美味しく感じられすぎて優劣をつけることなどできそうになかった。


どれも美味しい……どれも美味しいと思ってはいるのだけれど……だんだんペースが鈍ってきたのが自分でも分かる。何とか一通り味見をしたけれど、もう俺はこの夏分のゴーヤチャンプルは食べたと思う。さすがにゴーヤの味には飽きた。そしてお腹がいっぱいだ。いつもの3倍……ひょっとしたら4倍くらいの量は食べたと思う。お腹もぽっこりと膨らんで、ズボンもなんだか苦しく感じられた。


「ふーっ、ごちそうさまでしたー」


「えっ? もう終わり!?」


満足げに手を合わせた俺を、雫さんが驚いたように振り返る。いつの間にか、雫さんの前にあった8皿は4皿に厳選されていた。山のように盛り直した大きな丼も、ほとんど底が見えている。蒸留水を入れた1リットルのピッチャーも、残りわずかになっていた。


「『もう終わり?』って簡単に言うけど……俺、相当食べたよ。もうお腹パンパンだし……」


俺は立ち上がると「もう食べられません」とばかりにお腹に手を沿え、背筋を伸ばしてお腹の膨らみを強調した。


「そうかなー? それなら私のほうが食べてる気がするけど……」


雫さんもゆっくりと立ち上がって、白いブカブカのTシャツを後ろに寄せる。余った生地のせいで今までは全然気にならなかったが、俺よりはるかに細かったであろうはずの胴体の前方に、ぽっこりと張り出しているお腹の膨らみがあった。みぞおちの下、お臍の少し上あたりを頂点にして、下腹部までなだらかな稜線を描いている。俺はなんだか情けない気持ちになった。


「ごめん……その分、ご飯盛るのとかお皿動かすのとか、手伝うから……」


「ありがとう! そしたらまたご飯お願いー。あと、お水も酌んできてくれると嬉しいな! そこの浄水器の水」


俺はまた丼にごはんを山盛りよそい、雫さんに手渡した。雫さんは既に満腹の俺と比べものにならないほど大きなお腹を抱えながら、少しも変わらないペースで味見を続け、最終的に1皿を決した――飽きも見せず、満腹感も見せず、心底幸せそうな表情を崩すことなく。俺はそんな雫さんの食事風景を隣で眺めながら、いつの間にか尊敬にモニタを感慨を憶えていた。


「おつかれさま。そしたらお皿片付けるね」


「え、なんで!? まだいっぱい残ってるじゃん?」


最優秀作が決まれば夕食は終わりで、後は片付けだと思っていた俺は、怪訝そうな雫さんの言葉の意味を理解するのに時間がかかった。候補になった8皿は完食されているが、初めに候補から漏れた18皿はまだ、それぞれ半量ほどが残っている。どうやらそれらを完食するまでが、雫さんにとっての夕食であるようだった。


「え? 無理でしょそんな……」


俺はそっと雫さんのお腹を見遣った。相変わらず鎖骨のあたりはブカブカのくせして、雫さんの白いTシャツは、猫がプリントされているお腹の部分だけ、いつの間にか余裕がなくなっていた。だからブカブカの服に着替えたんだ……雫さんの謎がひとつ解けた気がした。


「無理とか言わないで……確かに月曜日はいつもしんどいけど、でも無理じゃないもん……お母さんの料理、おいしいもん……残しちゃったらゴーヤさんもお母さんも悲しむもん……」


そう言って頬を膨らませた雫さんはとても可愛くて、そのあと「よし、後半戦! いただきます!」と決意新たに息を吐き、水を一口飲み込んで、残る皿の料理たちに挑んでいく雫さんはとても格好良かった。俺は雫さんに乞われるがまま、その後もご飯を盛ったり水を注いだり、皿を雫さんの傍まで運んだりした。

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