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料理研究家のアドバイザー

「ただいまー」


「おかえりー。今日は遅かったんじゃない?」


ドアを開けると同時に、スパイスの爽やかな香りが漂ってきた。


「あ、今日はカレーかな?」


「当たりー、さすがね。もうできてるから、手を洗ってらっしゃい」


はーいと元気よく返事して、子供部屋にランドセルを置く。洗面所の鏡で確かめると、まだお腹の下の方はいつもより少し膨らんでいるようだった。


「大丈夫…かなぁ…。大丈夫、だよね…?」


そう自分に言い聞かせる。怒りに任せ、挑発に応じて一クラス分のスープを飲み干したはいいけれど、お腹にいつもより多くの負担がかかっていることは確かだ。5分休みのたびにトイレに行って、放課後はずっと体育館でお腹を空かせるべくランニングをしてみたけれど、お腹が平坦になっている訳ではない。これというのもみんな、悠太のせいだ。情けなく土下座した彼の姿を思い返しつつ、私は小さなため息をついた。


***


「サバ缶を使ったレシピを依頼されててね。今日は鯖とトマトを使ってカレーを作ってみたの。どれがいいかな?」


クリーム色のエプロンをした母が、いつものようにメモを準備して、笑顔で私を待っている。大きな食卓の上には、縦3行、横8列、合計24皿のカレーが並べられ、ホカホカと湯気を立てていた。念のため申し上げておくが、我が家は24人家族ではない。母と私の二人暮らしである。


「手前がベーシックな味付けで、奥にいくほどトマトの割合が多くなるの。この列はズッキーニが入ってて、この列はカボチャを入れてみたのね。こっちはパプリカの代わりにピーマンを使ってみて…臭みが出てなければいいんだけど…。この列はニンニクが多めになってて、こっちはニンニクの代わりに生姜を入れてみたのよ。こっちは鯖を先にしっかり炒めたけど、こっちは一緒に放り込んだから、もしあまり違いがなければ時短レシピになるの。最後の二列はちょっと冒険して、リンゴとレーズン、蜂蜜なんかを混ぜてみたわ。どうかしら…?」


料理研究家というのは一つのレシピを完成させるまでに沢山の試行錯誤を繰り返すのが常であり、夢見家の夕食にはいつも、数十種類の試作品が所狭しと並ぶのであった。


「わー! どれも、とってもいい匂いで美味しそう!」


私は食卓に座って、そんなたくさんの料理たちを眺める。私の仕事は、それら一つ一つを味見して、子どもの視点でコメントをすることだ。私が味見をしてアドバイスするようになってから、母は子供向け家庭料理を得意とする有名料理研究家の地位を確立した。どうも大人と子供では、味の感じ方が違うらしい。


「あー、このニンジン、ウサギ型になってる! かわいい!」


付け合わせサラダのニンジンは一つ一つウサギ型に切られていて、母の遊び心を感じさせるものだ。こんな風に一つ一つの芸が細かくて可愛いのも、母の料理の特徴だった。


「うーん、どっちもおいしいけど、私はトマトが多めの方が、パプリカには合うと思うなぁ。ピーマンにするならトマト少ないやつだけど、この鯖缶との相性はパプリカの方がいいみたい…」


母は熱心にメモを取り、私は一生懸命料理を食べる。


「先に炒めたやつの方が、鯖の旨味がよく出てるね」


「そう? 私も実はそう思ったの。でもこれだと、冷めたあと少しペタッとするかもしれない。冷めてからでも美味しいのはどれかなぁ?」


「うーん、どれだろう? ちょっと冷まして試してみるね…」


私はこの、母と会話する時間が好きだ。物心ついた頃から、数え切れないほどのレシピを一緒に作ってきた私たちにとって、この時間が一番大切なコミュニケーションの場なのだった。母は私の食べる姿を、とても幸せそうに眺め――そして私の残す姿を、とても悲しそうに眺める。


母は昔から、食料を無駄にしたがらない人だったが、料理研究家という職業がそれを許さなかった。あまりにも少ない食材では加熱が安定せず、レシピの評価ができないのだ。「ごめんね…ごめんね…」私たちはいつも、残った料理を泣きながらキッチンコンポストに捨てる。母に悲しい思いをさせないためには、私が母の料理を完食できればいいのだけれど、今日に至るまで、私はその目標を達成できていない。


はたして今日は、どこまで食べられるだろうか? すべての皿を半分ほど空にしたところで、私はキツくなってきたワンピースの紐をほどいた。自由になった胃袋が、スペースを求めて前にせり出してくるのを実感する。悠太もびっくりしていたけれど、私は別に小食ではない――むしろ、かなりたくさん食べることができる方だ。小さい頃から母さんの料理を毎日限界まで詰め込んできたので、他の人より胃袋が大きくなってしまっているのだと思う。1年ほど前から、既製品の子供服が入らないほど食後のお腹が張り出すので、手作りのワンピースを着用しているくらいだもの。


「ごめんね…母さんの料理は悪くないの。どれもすっごく美味しかった。美味しかったんだけど…私のお腹が情けないから…うっ…」


この日も結局、4分の3ほどを平らげたところで苦しくなり、時間をかけて少しずつゆっくり食べ進めても、ついぞ完食は叶わなかった。悲しくて、情けなくて、そしてお腹の皮が張り裂けそうに痛い。あとひと口でも食べたら、中から破裂して中身が漏れ出てきそうだ。深い呼吸ができない。椅子に脚を開いて座り、背筋を反らす。ワンピースの下から手を入れると、あばら骨のすぐ下から臍のあたりまでを中心に、パンパンに大きく膨らんでガッチガチに固い胃袋が確認できる。私は母と食材に何度も謝って立ち上がると、よろよろと子供部屋に向かって歩き出した。

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