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給食週間最終日

「みなさんひとりひとりの頑張りで、残し物ゼロを達成でき、先生もとても嬉しいです。来週からも、好き嫌いなく食べて、身体を丈夫に保ちましょう。1年生のクラスでは、ヘルパンギーナで学級閉鎖も出ていますので、みなさん手洗いうがいはしっかりしてください。それでは日直さん、よろしくお願いします」


「手を合わせてください。ごちそうさまでしたー」


「ごちそうさまでしたー」


活きのよい男子グループが昼休みのドッヂボールをしに、我先にと体育館へ駆け出して行った。教室の中が一回り静かになった。黒板消し当番だった俺が仕事を終え、体育館へ向かおうとした矢先、雫さんが険のある声で俺を呼び止めた。


「ねえ、ちょっといい?」


両手を腰に当て、彼女はまっすぐ俺の目を見た。俺は彼女の大きな目を見つめることができず、彼女の手元に目を泳がせた。腰に当てた手の位置には質のよい糸で織られた太めの白いリボンがあり、紺色のワンピースをキュッとウエストのところで絞っていた。ワンピースはどうやら手縫いのようで少し古風なデザインだったが、彼女が着ると少しも野暮ったさはなく、むしろ彼女の品の良さを演出しているようにさえ感じられた。


「なんだよ?」


俺は気のないようなそぶりで、わざと突っ慳貪に答えたつもりだ。


「私のこと、嘘つきだと思ってるでしょ?」


「嘘つき? あー、給食残す理由のこと? だって、どーせ嘘なんだろ?」


「あのね、私、そういう風に思われるのが、すごく悔しいの。すごく悔しいから、そうじゃないってことちゃんと分かって。そして謝って」


彼女はそう言って俺のTシャツの裾を引っ張り、スタスタと歩き出した。どこへ連れて行かれるのかは知らないが、俺は道すがら彼女の横顔を眺めた。彼女は俺の方を見向きもせず、口をきいてもくれなかった。


我々は階段を降りて、低学年のフロアへ入った。教室の中で大縄飛びをしている声が聞こえてきた。彼女は廊下の一番奥にある、ひと気のない給食配膳室へ入り、扉を閉めた。蛍光灯の消えた薄暗い室内には、小さな明かり取りの小窓から、初夏の日差しが一条差し込んでいた。


「やっぱり。突然の学級閉鎖だから、あると思ったんだ…」


雫さんが1年2組のワゴンを覗き込みつつ呟く。無骨な金属製の丸容器の中で、手つかずの野菜スープが初夏の日差しを受けてキラリと光った。彼女と二人きりで部屋に居ることが、そのとき俺の中で唐突に自覚された。ニンジンの赤が教室で見たときより、鮮やかに思えた。


「スープなら消化も早いし、スープでいいよね?」


彼女はそう言って、同意も待たずにスープの容器を取り出し、床へ置いた。続いて金属製のお椀を取り出すと、まるで神社の手水舎で柄杓に水を酌むかのように、お椀で直接なみなみとスープを酌んだのだった。


「いただきます」


彼女は両手でお椀を掲げ、結婚式で杯を頂くような優雅さでスープを飲んだ。小さく刻まれた野菜たちはほとんど噛まれないまま、彼女の喉を通過していったようだった。喉の鳴る音が小気味よく部屋に響き、瞬く間に椀は空になった。彼女は間髪入れずお椀を容器に入れ、唇との間に往復させた。


「ちょっ…何やってるの?」


幾度目かの往復をぼんやりと眺めた後、あまりの非日常に暫く思考停止していた頭の回路が再び動き出した俺は、彼女に遅ればせながらの突っ込みを入れた。


「何…って…見て分からない? スープ飲んでるの…」


「いや…それは分かるけど…なんでなんで?」


「だから、証拠見せるって言ったでしょ?」


「へ!? …はい…」


我ながら情けない声だったと思うが、俺はそのまま、事態を傍観することしかできなかった。10往復ほどして、彼女はふうっと息を吐き、ワンピースのリボンを結び直した。ワンピースの皺から察するに、さっきまでくびれていたウエストは寸胴に近づいているようだった。リボンを結び直すと、彼女はさっきまでと変わらぬ速度で嚥下を再開した。


「ごちそうさまでした…これでどう? …なんか文句ある?」


時間がどれほど経ったのかよく分からないが、俺が次に我に返ったのは、彼女が空になったスープの容器をこちらに向け、俺の目を再び見つめたときだった。雫さんはそれまでに何度かワンピースのリボンを結び直し、凹だったワンピースの腹部はもはや、明らかな凸になっていた。最後の数杯分、上手くお椀で掬えなくなった分のスープは、直接大きな容器に口をつけて、大きな容器を傾けながら流し込んでいたと記憶している。


「す…すみませんでした…」


俺は圧倒されて、思わずその場に土下座した。後にも先にも、俺は人生でこのときしか土下座はしたことがない。


「分かれば、よろしい…分かれば…けふっ…」


彼女は満足そうに微笑んで、妊婦のような表情で慈しむように腹部をさすりながら、ささやかなゲップの音だけを残してゆったりと部屋を出て行った。俺はそのまま呆然と座り込んで、床の冷たさを両脚に感じつつ、女神が通り過ぎたかのように彼女を見送っていた。彼女がたくさん食べられるというのは、決して嘘ではなかったのだ! 事実、ひとクラス分のスープをその胃に流し込んでいながら、彼女は少しも余裕の表情を崩さなかった。たかだか一人分弱、彼女の給食を時々かわりに食べてやる程度で、偉そうな口をきいていた今までの俺はなんと情けないことか!


俺は気恥ずかしくて、その日の午後は彼女に話しかけることができなかった。

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