再会
悠太のレストランに幼なじみの雫がやってきます。
その電話がかかってきたのは、開店して2度目のクリスマスイブ、閉店間際のことだった。繁忙期限定で依頼したパートの沙耶が「うちってコース料理なんか設定してましたっけ?」と怪訝な顔で俺の方を見た。
「どういう電話?」
鍋からローリエを取り出しながら尋ね返した俺に
「なんか、これからフルコースが食べたいって言うんです。今日なら二人分ちゃんと食べ切れそうだから、って・・・・・・」
と受話器を差し出す沙耶。
「お電話ありがとうございます、レストランDreamy Droplets です。申し訳ございませんが、当方フルコースの設定はございませんで・・・・・・」
断ろうと受話器を受け取った俺の耳に突然、忘れようとしても忘れられない声が飛び込んできた。
「あ、すみません・・・・・・そうじゃなくて・・・・・・これからそちらのメニュー全てをお願いすることってできますか?」
「・・・・・・雫さん!?」
考えるより先に、声が出ていた。
「えっ!? ゆーちゃん!? どうして分かったの!?」
「・・・・・・そりゃあ・・・・・・分かるよ・・・・・・」
さすがに、ずっと好きでした、とは言えないし
「・・・・・・お店のメニュー食べ尽くすのにフルコースなんて表現使う人、今まで雫さん以外いなかったもん」
と誤魔化してみると
「でも、最初に中華のフルコースって言い出したのは、ゆーちゃんだからね!」
って、あの頃と同じような語り口が返ってきた。
もう最後に話して10年になるのに、まるで昨日別れたばかりみたいな・・・・・・不思議な感覚。
大人になってからの知り合いと違って、幼なじみは一瞬で当時の雰囲気に戻れるというけど、その噂は本当みたいだ。
「えー? 雫さんの方が言い出したんじゃなかったっけ?」
「違うよー! 私あの頃のことはよく覚えてるもん! 私が『満腹』ってついてる未来軒のチラシ見つけて『これ全部食べたい』って言ったら、ゆーちゃんが『フルコースみたい』って笑ったんだよー」
「そうだったかな?」
「そうだったんだって!」
「・・・・・・シェフ!? 湯本シェフ!?」
突然口調の変わった俺を、お客さんやパートの沙耶が怪訝な面持ちで見つめている。
「ごめん、まだ営業中で他のお客さんもいるからさ・・・・・・後でいい?」
「オッケー、ならお店閉まる頃に行くねー」
「えっ!? アメリカ・・・・・・」
後で電話しようと思って言ったのに、なんだかすぐに来るような口ぶりだった。いまアメリカじゃないの? と聞こうとする頃には電話が切れていた。慌てて着信履歴を見たが、非通知設定で折り返すこともできない。
半信半疑で営業を終え、パートの沙耶を帰して店の表玄関を閉めようと鍵を取り出すと、少し離れた電信柱のところに停車していたパールホワイトの高級車が、ゆっくりとこちらへ走ってきて、街頭の下に止まった。そういえばあの車は、ずいぶん前からあそこに駐まっていたような気がする、などと思っていたのも束の間、後部座席のドアが開いて現れた人影に、俺は思わず目を奪われた。
深紅のマタニティードレスに、深い緑のハイヒール。品よくお洒落にまとまっているのは、一目で上物と分かる生地の質感と、現代的なデザインによるものだろう。コツ、コツ、と夜道に歩行音が響き、揺れる裾から垣間見えるスラリとしたふくらはぎの白さが眩しい。
一陣の風が吹き、コートを着ていない彼女はブルッと身を震わせる。胸元の双球が一瞬遅れて柔らかそうに変形した。かつて彼女のお母様がそうだったように――否、それ以上に――彼女の胸は、たわわに実っていた。金色のネックレスの影に、鎖骨のラインがうっすらと浮き立ち、ほっそりとした首筋へと繋がっている。
華奢な首筋の上には、白く透明感のある肌に、ほんのりと染まった頬。スッと通った鼻筋に、パッチリした目。みずみずしく艶やかな唇が「ゆーちゃん! 久しぶり!」と、喜びを爆発させるかのような響きを発した。
「久しぶり!」と思い切り返そうとして、心が急速に凋んでいくのが自分でも分かる。雫さんはもう、あの頃のように、駆け寄ってくることはない。彼女が駆け寄ってこない理由はおそらく二つ。ひとつは 10 cmはあろうかというハイヒールで、もうひとつは臨月間近とおぼしき腹部の膨らみである。彼女は慈しむようにその膨らみをさすりながら、ゆったりとした足取りで、こちらに近づいてくる。思わず左手薬指に目を遣るも、明らかな指輪はついていなかった。
「ひさし、ぶり・・・・・・だけど・・・・・・どうしたの?」
喜びと驚きの入り交じったような情けない声が、俺の口から漏れる。そう、10年。最後に会ってから10年も月日が流れたのだ。10年も経てば、人は変わる。これだけ美人なのだから、彼女に言い寄る男だって一人や二人ではなかっただろう。
「どうしたの? って、ゆーちゃんのお料理を食べに来たに決まってるじゃん!」
あの頃と変わらず明るい声で、雫さんが答える。
「さすがゆーちゃん! もうお店を持ってるなんて、すごい! わぁー・・・・・・素敵なお店!! ねえ、入っていい? ちょっと寒くて・・・・・・」
「・・・・・・もう閉店時刻なんだけど・・・・・・」
ハイテンションの雫さんに、ムスッとした声で返答してしまう自分の、懐の狭さが悔しい。
「『他のお客さんもいるから後で』って言ったのはそっちじゃん!」
「それは、電話を後にしてくれ・・・・・・ってことで・・・・・・まさか来るとは・・・・・・」
「えー、あの頃の夢、ひょっとして変わっちゃった!? 私、そのために練習して、やっと二人分食べられるようになったのになー」
「・・・・・・へ!?」
「ゆーちゃん、私のママみたいな料理研究家になりたい、って言ってたじゃない? そしたら私がちゃんと料理を食べて、アドバイスしてあげなきゃでしょ? ママの料理は私の味見とセットなんだもの。だから私、ママの料理もゆーちゃんの料理も食べられるように、アメリカでもちゃんと練習してたの」
「・・・・・・は!?」
「で、去年ゆーちゃんがレストラン開いたって聞いたから、ママに頼んでこっちに戻ってきて・・・・・・ほんとはすぐにでも来たかったんだけど、でも万が一残しちゃったら失礼でしょう? だからママが思い切り料理を作った日にも、ちゃんとゆーちゃんの料理を食べ切れるように、ちょっと追加で特訓してたら遅くなっちゃったの。でももう大丈夫! 今日はクリスマスディナーで、ママが一年でいちばん張り切ってお料理を作る日なんだけど、私ぜーんぶ完食したのに、まだまだ余裕があるの。だから来たの!」
今日なら二人分ちゃんと食べ切れそうだから・・・という謎な電話口の言葉がようやく腑に落ちると同時に、自分の勘違いが恥ずかしくなった。彼女は誰かの子を宿して私の店に現れた訳ではなく、母の料理を完食してから私の店に来たのだ。料理を残すと異常に悲しむ母の元に生まれ、料理を残さず食べきることを最大の愛情表現と信じて、過酷な胃袋の拡張訓練を続けた彼女は、母と私、二人分の料理を食べきる自信がついたから、晴れて私の元に戻ってきてくれたのだ。
小学生の頃の雫さんが、母の料理を食べきれるようになるまでにどれほど苦労したのかを、私はよく知っている。限界を超えて悲鳴を上げるパンパンの胃袋の中へ、米やプリンや野菜ジュースを、それでも気力で押し込んで・・・・・・気を失ったり、数十キロも激太りしたりしながら、やっとの思いで母の料理を食べきれるようになったのではなかったか。その上さらに私の料理まで食べきろうとは、いったいどれほどの苦労があったのだろう? 10年間の歳月に思いを馳せながら、私は胸がいっぱいになった。
「無理しなくていいからね。俺は別に、たとえ料理を残されたとしても、雫さんのこと好きだからさ・・・・・・」
凍えそうな雫さんに店の扉を開けながら、長いことあたためていた「好き」という言葉が、自分でも驚くほどスムースに出てきた。
「それは嬉しいけど・・・・・・でも、私が食べたいの! 残っちゃったらお料理にも申し訳ないし、好きな人の作ってくれたお料理を食べるのは大好きだし、それに私・・・・・・」
雫さんが、ちょっと恥ずかしそうに付け加える。
「私・・・・・・おなかいっぱいになるまで食べるのが好きなんだって、気づいちゃったの。ママのお料理だけじゃ、もう足りないの・・・・・・」
雫さんのお腹が、タイムリーにグーッと鳴った。俺はカウンター席に雫さんを案内すると、意気揚々と調理に取りかかった。夜はまだ長く、互いに10年分の積もる話だっていくらでもある。しかしまずは、とびっきりの前菜を出すことから始めようではないか。
(※西表なむ先生が描いてくださいました!)
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