おなかの練習帳
今年もよろしくお願いします。
娘の気持ちに気づいたのは、ロサンゼルスに来て荷ほどきを始めた夜だった。引越業者が誤って私の部屋に運び入れた娘の段ボールを空けたとき、一番上にそのノートはあった。表紙に娘の丁寧な字で「おなかの練習帳」と書かれていた。
新しい冠番組の収録や、日本食レストランの立ち上げで忙しく、このところ家を留守にしてばかりになっていたことは自覚していた。娘は面と向かって私に寂しいとは言わなかったけれど、仕事へ出かける私をいつも寂しそうに見送り、私が珍しく家にいる日は、今までより一層熱心に私の料理を食べ、たくさんのコメントやフィードバックをくれた。育ち盛りだからか、食事の量も増え、身体も丸みを帯びてきているようには感じていたが、体型のことをとやかく言って無理なダイエットに走ったり拒食症になったりされては困るので、私からは何も言わなかった。まさか、もの寂しさから家に男を連れ込んで、そいつに肥育されているとは思わなかったし、それに気づかなかった自分自身にも腹が立った。ひと月ぶりに会った娘は、かつての服が全く入らないほどに、でっぷりと肥え太らされていて、まる二日食事を抜いて体重計に乗せてみても、針は私よりずっと重い、74.8 kg を指した。娘をこれ以上、あの男と接触させてはならないと信じ、私は急遽アメリカ入りを前倒しして、娘ともども米国入りした。
どうして私の料理に満足できず、あんなやつの料理でこんなに肥ってしまったのか! 私は「おなかの練習帳」を見つけるまで、娘に怒りの感情を抱いたまま、ろくなコミュニケーションを取らなかったし、娘が「せめてちゃんとお別れをしたい」と泣いてせがんでも、頑としてクラスメートには会わせなかった。私は知らなかったのだ。娘がこれほど肥ったのは、自らに課した壮絶な訓練の結果であったということも、血の滲むようなその努力が、ただ私を喜ばせたいという一心からのものだったということも! そのノートは日記のように、去年の春に始まっていた。
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4月7日 (晴れ)
4年生になりました! 「みなさんも高学年の仲間入りです。それぞれのゆめに向かって、目ひょうをしっかり立てて、記ろくをつけながらこつこつがんばりましょう」って、すず木先生がおっしゃってたので、わたしは今日から「おなかの練習帳」をつけていこうと思います。早くママの料理を完食して、ママによろこんでほしいと思うからです。ママはいつも、すごく一生けん命、お料理を作ります。すごいです。だから私も一生けん命、ママのお料理を食べます。でもまだ食べきれません。せっかくおいしいママのお料理を、すてちゃうのはすごくもっ体ないと思います。わたしは早く大きくなって、ママの料理をペロッと食べて、「すごくおいしかったから、おかわりちょうだい!」って言ってあげられるくらいになりたいです。それが、わたしのゆめです。今日のお夕はんは、春キャベツのミートローフでした。デミグラスソースもよかったけど、トマトのたくさん入ったソースがすっごくおいしかったです。パンはたくさんのこしちゃったけど、スープもおかずも半分くらいは食べられました。明日はもっと食べられるようにがんばりたいと思います!
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4月8日 (くもり)
今日はママが出ちょうなので、ゆーちゃんにもママのお料理食べるのを手つだってもらいました。ゆーちゃんが「運動したらおなかすいて、もっと食べられるようになるんじゃない?」って言ったので、二人で公園を15周しました。二人とものどがかわいたので、けんちん汁はとってもおいしくて、ほとんど飲みきれたけれど、あじの味そ煮と、ごぼうのきんぴらは、あまり進みませんでした。汁ものを先にたくさん飲むと、おなかがチャポチャポしてしまって消化に悪いのかもしれません。のどがかわいていても、汁ものは後半にしようと思います。
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4月9日 (雨)
今日はママが、小ろん包をたくさん蒸してくれました! 一口サイズで、とってもかわいいの!ふっかふかのほかほかで、とってもおいしい! できたてあつあつの料理って、幸せです。キノコとか、タケノコとか、エビとか、具のバリエーションがたくさんあって、組み合わせが楽しかった。わたしの感想に合わせて、ママが次の組み合わせを蒸してくれるのも最高! やっぱりママは料理の天才だと思います。羊の肉に何が合うのか、今日は決めきれなかったので、それはまた次回の宿題です。わたしがもっとたくさん食べてあげられれば、ママともっといっしょに料理研究できるし、ママのレシピ開発ももっと進むのに、わたしのおなかが、なさけないです。さいご、ちょっと気持ち悪くなって、あわてて部屋にもどったら、ママを心配させちゃいました。反せい。もっとおなかをすかせなきゃだけど、これいじょう給食残すと先生にも注意されそうだし、こまったなあ……
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記録はこんな調子で、小さな字で毎日几帳面に続いていた。娘は生まれつき大食いなのだと思っていたので、私の料理を食べるために給食を残していたことは意外だった。日々の記録から、娘が私との僅かな時間――料理と食事の時間――をどれほど大切に思っているかが垣間見えた。娘は娘なりに、私の料理を残すまいと試行錯誤していたようだ。給食を残したり、ランニングや水泳をしたり、食べる姿勢や順番を変えてみたり……どうしたらもっとたくさん私の料理を食べられるようになるのか、私の知らない彼女の努力がノートには無数に記されていた。ノートには途中から、細かな数字がつくようになった。
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7月23日 (晴れ) 49.36 キロ
今日は、ゆーちゃんと、電気屋さんで体重計を買いました! はりが動くやつじゃなくて、数字が画面に表示されるやつです。いちばん細かく量れるものを買いました。これで、ママのお料理をどのくらい食べられたのかが数字で分かります。ゆーちゃんの言うとおり、今まではママの料理を「半分くらい」とか「何皿」とかって書いてきたけど、それだとちゃんと比べられません。だって、おわんに入った味噌汁1ぱいと、お皿に入ったスープ1ぱいはちがうもの。これからは、ちゃんと体重をはかろうと思います! ちなみに今日は、ビーフシチューをおなかいっぱい食べて、49.36 キロでした。食べる前の体重も量った方がいいと思うので、明日からは食べる前と後で量ってみます!
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7月24日 (快晴) 38.45 キロ、 49.00 キロ
今日はママと、天ぷらそばを作りました! いろんなかきあげがあったけど、わたしは春ぎくの入っているのが一番好きです。そうママに言ったら「天ぷらについてはしぶい味覚してるね」って言われました。しぶいってのは大人ってことかな? ちょっとうれしい。体重は、昨日と同じおふろ上がりに量ったけど、48.92 キロにへっちゃってました。おそばはスルスル食べられるけど、天ぷらみたいに油が強いものだと、おなかいっぱいになるのも早い気がします。おふろ上がりに、おそば湯を少し追加で飲んで、キリよく49.00キロにしてみました。お夕飯の前は38.45キロだったので、これで10.55キロ食べたことになります。でも、食べる前は、お洋服着たまま量ってたので、服の重さも考えると、もうちょっと食べてる気もします。明日は食べる前も、ちゃんとお洋服をぬいで量ってみようと思います。
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7月25日 (くもり) 37.60 キロ、49.60 キロ
今日はママと、おとうふでハンバーグを作って、たくさん焼きました! お肉を使わない分、鯖の缶詰をどのくらい混ぜるといいか、ママはずいぶん悩んでました。まんまるのハンバーグだけじゃなくて、ねこさんとかくまさんとか、いろんな形になっているのが、とってもかわいかったです。天ぷらより食べやすいと思ったけど、思ったとおり、食べたあとの体重は49.56 キロありました。食べる前に、お洋服をぬいで量ったときは37.60 キロだったので、11.96キロ食べたことになります。お風呂上がりにちょっとお水を飲んで、49.60キロにしてみました。これでちょうど12キロです。お風呂に入る前にトイレに行っちゃったので、明日はトイレいく前にはかってみようと思います。
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7月26日 (雨) 37.76 キロ、50.0 キロ
今日はママが収録なので、作り置きがチキンカレーでした。カレーはたくさん食べられるので、ゆーちゃんと記録に挑戦してみました。食べる前のゆーちゃんは42.19 キロで、わたしはマラソンみたいって言いました。わたしは37.76 キロで、ゆーちゃんからは富士山みたいだね、って言い返されました。富士山の高さは3776 メートルなんだそうです。ゆーちゃんは大盛りのカレーを4杯食べて44.70キロ、私は大盛りのカレーを20杯食べて、49.95キロになりました。おなかがいたくて苦しくて、今にもやぶけちゃいそうだったけど、50キロになったって言いたかったので、がんばってその場で、お水を少し飲みました。たった50ミリリットルなのに、なかなかのみこめなくて、前かがみになりながら、すごく時間がかかりました。そのあとすぐトイレに行っちゃったから、50キロはほんの一瞬だったけど、間違いなく人生で、いちばんたくさん食べたと思います! 達成感がすごい! がんばった、わたし!!
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ゆーちゃんというのは、あの日部屋で料理を作っていたクラスメートの男児のことで、私の料理を食べきれなくて困った雫が、私の居ない日に家へ誘っていたものらしい。そのうち娘が「ゆーちゃんと競争したほうがいっぱい食べられる」ということに気づいたようで、そこからしばらくのページには、娘と「ゆーちゃん」の記録が数多く併記されている。パラパラとページをめくってみた私の目に、ひときわ大きく飾り付けられたページが目に飛び込んでくる。何かしらの転換点のようだ。
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10月5日 (くもり) 39.60 キロ、53.28 キロ
大発見!! ゆーちゃんの予想した通りだった! 先週よりずっと楽に、先週よりずっとたくさん食べられてる! 週末もちゃんとおなかを使ってあげた方が、おなかを休ませるよりいいみたい! どんなにおなかを空かせても、おなかに入る量には限りがあるから、胃ぶくろを大きくしなくちゃいけなかったんだ! 今までで一番たくさん、ママの料理を食べられたよ! 今日のグラタンは大成功ね、って、ママも嬉しそう! 最高!!
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前後の記録と照らし合わせて推測するに、月曜日の記録が金曜日の記録より常に悪いことを発見したゆーちゃんが、週末も大食いすることを提案したらしい。そこから娘の体重は、食前も食後もうなぎ上りになっていることが明白だった。
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10月10日 (晴れ) 40.21 キロ、54.00 キロ
今日は昼から未来軒のフルコースに挑戦! 夜までかかったけど、ごはんだけは残っちゃった。でも、もう二人ともギリギリで、私も最高記録! しばらく土曜日は未来軒の中華にしよう。フルコースを一人で食べきれるくらいじゃないと、ママの料理は食べきれないもんね!
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「中華のフルコース」とは何だろう? と一瞬思ったが、数週後の記録を見る限り、どうやら「ランチセットの出前18種を全て1人前ずつ頼む」という意味らしい。正しいフルコースの意味を娘は当然知っていて、少しふざけた名前をつけたのだろう。ちょうど私が、和洋折衷の新しいフルコースを開発しようとして、壁にぶつかっていた頃の話だ。
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11月28日 (雨) 41.88 キロ、57.40 キロ
とうとう! 未来軒の中華フルコース、ゆーちゃんと私で完食! ゆーちゃんが3人前、私が15人前! ゆーちゃんがギブした最後の数口は手伝ったから、ゆーちゃんが3人前弱、私が15人前強! もう一口も入らないくらい、二人とも限界! おなかパンパンだけど、痛くて気持ちよくて、幸せなの……不思議。この2か月、いままで停滞してたのがウソみたいに、わたしどんどんたくさん食べられるようになってる! やっぱり胃ぶくろは使わないと大きくなってくれないんだなぁ。もっと大きく育てて、ママに喜んでもらうんだーっ!
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11月29日 (嵐) 42.05 キロ、57.38 キロ
今日は朝から、ゆーちゃんと大食いの練習! ひどい嵐だったので、お寿司の出前にしてみる。6人前60貫っていうのを5セット頼んだけど、全然物足りなくて、のどばっかりかわく。そしたらゆーちゃんが「それならオレが作ってやるよ」って、ママのレシピを見ながら、薄味のお味噌汁と、おにぎりを作ってくれた。ママの料理の方が断然おいしいけど、今日もおなかをいっぱいにしておかないと胃ぶくろが縮んじゃってもったいないから、アドバイスをしながら食べてあげる。そしたらゆーちゃんも、わたしを納得させる料理を作りたかったのか、何度も作り直して、ちょっとずつ上手になって、夕方にはだいぶ、ママの味に近づいた気がする。ママの料理には敵わないけど、出前より安上がりだし、日曜日はゆーちゃんの料理にしようかなぁ。
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11月30日 (晴れ) 42.02 キロ、57.42 キロ
今日は、ママとのディナー開発12日目! 一つ一つのメニューは申し分ないくらいにおいしくても、組み合わせると変な感じになっちゃったりするから、フルコースの相性ってすごくむずかしい。ママは今年のクリスマスに間に合わせたいみたいだけど、わたしの胃ぶくろが小さいせいで、味見がぜんぜんはかどらなくて、くやしい。レシピの提出まで、あと2週間……ママと一緒にレシピ開発ができるのは、あと6日しかないのに! わたし、もっとママのこと手伝いたいのに、すぐおなかいっぱいになっちゃう。しめきりが来たら今回も、ママは今あるレシピで「だきょう」するって。ママは「だきょう」するときいつも、とっても悲しそう。ママの料理は、ほんとはもっとおいしくなるはずなのに、いつも「だきょう」させるのはわたしのせい……。また、わたしの大好きなママに、ざんねんな思いをさせちゃいそうなのが、かなしい……。はやくもっともっと、もっとたくさん食べられるようになりたい!
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ディナー開発が間に合わなかった日、娘が大きなお腹を抱えてベッドで号泣したこと。私のつくった鮭のホイル焼きが、ものすごく美味しかったこと。お昼も胃袋をいっぱい近くに拡げておこうと、毎日昼休みに配膳室で余った牛乳を飲むようになったこと。イタリア料理の発想を取り入れた私のお雑煮が、びっくりするくらい美味しかったこと。中華フルコースを平らげても余裕ができ、肉まんやごま団子も追加で注文できるようになったこと。私の弁当レシピ集がベストセラーに選ばれて、とっても嬉しかったこと。食後の体重が初めて70kgを超えたこと。私が新作料理に挑んでいるときの表情が大好きなこと。料理上手になってきたゆーちゃんが、私のような料理研究家に憧れて、いつか私に会いたいと言ってくれていること。初めて私の料理を完食できた日、私の料理を無駄にしなくてすむことに、嬉し涙を流したこと。私が新しく出店しようとしているアメリカでの新事業を心から応援してくれていること。そのためにもっとたくさん食べられるようになりたいと、帰ってきた私とレシピ開発する幸せを思い描きながら、私がいない夏休みの間、朝から晩まで満タンの胃袋に食べ物を詰め込み続ける過酷な生活を自らに課したこと……
もの寂しさから家に男を連れ込んで、好き勝手食べ散らかして肥ったなんてことでは、決してなかった! 娘が私のことを、どんな風に思ってくれていたのか! 娘が私のために、私の知らないところでどれほど頑張ってくれていたのか……! 私の知らない娘の時間がノートから溢れ出してきて、私は涙を抑えることができなかった。