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二人の夏に

「わぁー! これ、ママのにそっくり! ゆーちゃん、上手くなったんじゃない?」


ロールキャベツを一口食べて、雫さんが満面の笑みを浮かべた。


「お母さんのレシピ通りに作ったからね。僕にも似た味が出せるのは、レシピの書き方が上手いんだと思うよ」


口では謙遜をしてみるけれど、美少女に喜んでもらえるのは満更でもない。朝から仕込んだ甲斐があるというものだ。


「もうすぐハンバーグとポトフもできるけど、次は何がいい?」


「そうだねぇー。そしたら次は和食にしようかな。鯖の味噌煮と、アサリの酒蒸し……あとほうれん草のお浸しがいい! ゆずを多めに使うやつで……」


「オッケー」


アサリは確か、2つ目の冷蔵庫の、右上だったはず……


「何人前にする?」


「レシピの通り、4人前でいいよー」


「ほんとに大丈夫?」


「大丈夫大丈夫……待ってる間に、またお腹空いてくるから……」


4人前だと……アサリは350gか。僕はレシピを見ながら、アサリを秤に乗せる……348 g……最近目分量が、おおよそ予想通りになってきた。この1か月で、我ながら料理はかなり上手くなったと思う。雫さんのママが執筆したレシピ本を元に、雫さんのフィードバックをもらいながら料理を作っているのだから、上手くならない方がおかしい。


雫さんのママがアメリカへ、和食レストランの立ち上げに旅立ったのは、7月18日。今日は8月17日だから、明日でちょうど1か月だ。この1か月間、僕は毎日夢見家に通い、雫さんのために、朝から晩まで家事をしていた。商店街を何往復かして、食材を買い込み、料理を作って、皿を洗い、部屋の掃除をする。小学生の夏休みとしては異常なのかもしれないが、特段予定のなかった僕にとっては、雫さんと一緒に過ごせるだけで幸せだった。


「はい、ポトフ……」


「わー、こっちも美味しそう……でも、鍋ごとでいいって言ったのに……皿洗い、大変でしょう?」


「でも、その感じだと、食べきるのに時間かかるでしょ? 雫さんには、温かいの食べてほしいからさ……」


料理に少し慣れてきてから、僕は雫さんのペースに合わせ、あたたかいものは極力あたたかいまま、こまめに給仕することにしていた。雫さんの食事は、もはや決して速くはない。合間に勉強をしたり、トイレに行ったり、シャワーを浴びたりしながら、少しずつ少しずつ、食べ進めていく。パンパンになっている雫さんのお腹には、もうほとんど隙間などないからだ。一日一食と言うべきか、一日数十食と言うべきかは分からないが、とにかく朝から晩まで、ひっきりなしに消化器官を酷使している。


「ゆーちゃん、いつも、ありがとう……でも私、まだまだ余裕だよ……けふっ……」


まだまだ余裕と言いながら、雫さんの表情はそれほど楽そうには見えない。肘掛けに手をついて立ち上がると、小さなゲップが口から漏れた。ダボダボのTシャツを押しのけてみっちりと膨らんでいるお腹が、さらにいっそう飛び出して見える。あまりに大きな膨らみなので、初めて見た人には、巨大な枕か何かをTシャツの中に押し込んだように見えるかもしれない。しかしその膨らみは確かな重量感を持って、雫さんの動きと連動しつつ、重力にしたがってでっぷりと垂れ下がり、さらなる空間を求めていた。雫さんはそのまま腰に手を当て、ゆっくりと背中を反らせる。


「ごーーーーーゲっ」


低く轟く大きな音が、可憐な少女の口元から発せられた。雫さんは恥ずかしがって「換気」と言うけれど、要するにゲップである。限界間近の胃袋に少しでも空間を捻出するため、こうして時々空気を逃がし、その隙間にさらなる栄養素を詰め込むのだ。朝よりも夕方の方が、換気の回数は多い。慢性的に伸ばされ慣れている雫さんの胃袋を以てしても、夕にはそれだけ負担がかかってくるということなのだろう。僕は換気の頻度を見ながら、雫さんが無理をしすぎないように、給仕の間隔を調整したりもしていた。


「よーし、それじゃあ、いただきまーす!」


再び席に座った雫さんは、再び笑顔で食事を始める。俺は鯖の臭みを取るためのお湯を沸かしながら、焼きたてのハンバーグを持って行く。


「わーい! このハンバーグ、好きなんだよねー。そしたらご飯も欲しいな。とりあえず、1杯でいいから」


業務用炊飯器の蓋を開け、ご飯を丼によそう。雫さんの「1杯」は常に、巨大な丼への山盛りを意味していた。山が十分大きくないと不機嫌になるから、しっかりと山盛りにして持って行くのがコツである。


「ありがとー。ハンバーグもう1枚……」


ごはんを持って行くと、既にお皿の上のハンバーグはなくなっていた。「換気」の後は、一時的に食事のペースが速くなるのだ。


「はい。鯖ができるのにもうちょっと時間かかるから、ハンバーグあと6枚、大事に食べてね」


「はーい!」


笑顔の雫さんは、そのままご機嫌で食事を続けていく。こんなにもパンパンなお腹の中の、どこに食べ物が入っていくのだろう? 僕は毎日不思議に思うけれど、雫さんの身体は毎日その不思議を超えてくる。その日も雫さんは夜まで食べ続け、鯖の味噌煮と、アサリの酒蒸し、ほうれん草のお浸しはもちろん、追加で作ったポークピカタと、夏野菜のキッシュ、ミネストローネはあらかた――僕が夕食にした一人前を除いて――雫さんの胃袋に収まった。


「おいしかったー! そしたら、デザートにプリン!」


「えー、まだ食べるの? さっきはミネストローネで終わりって言ったのに!」


「デザートは別よ! もしかして……作り置き、ないの?」


雫さんの健康のために、時には厳しいことも言わなくてはと思うものの、寂しそうに眉を下げる美少女の表情に、僕の気持ちは簡単に揺らいでしまう。


「作ってはあるけどさ……そのおなかでしょ?」


その「おなか」の意味するところは二つある。第一には胃袋のことだが、第二にはおなか回りの皮下脂肪のことだ。顔周りはすっきりしているのであまり目立たないし、摂取している莫大なカロリーに比べれば変化は微々たるものとはいえ、もとは華奢だった雫さんが、このところ急にふっくらしてきた。夏休みになってからは特に、一日中室内で食べ続けているせいか、胸もお尻も太腿も、二回りほど大きく、小学生離れした肉付きになり、食後のおなかを押しても、カチカチではなくフニフニと脂肪の感触がある。本人も気づいているのではないかと思うものの、女の子に『肥った?』と言うのも憚られて、ちゃんと指摘ができないでいる。


「私のおなかなら大丈夫! 自分のおなかのことは、自分が一番よく分かってるもの!」


「でも……今日は今までで一番食べてると思うし……」


「大丈夫だって! そしたら訊いてみようか?」


巨大なおなかの膨らみに優しく手のひらをあてがって、雫さんが不意に神妙な顔をする。


「『もしもし、私のおなかさん、これからデザートは食べられますか?』『もちろんまだまだ食べられますよ。ゆーちゃんのプリンはおいしいもの!』 ほら! デザートまだまだ食べられるって! だから出してよー!」


「そういうことじゃなくて……ほら、なんだか夏休み始まった頃より、おなか随分立派に育ってない?」


「気づいた!?」


不機嫌になるのではないかという予想に反して、雫さんはなんだか嬉しそうな顔をする。


「やっぱりゆーちゃんもそう思う? 私この夏、食べられる量を、すっごく増やせた気がするの。ゆーちゃんの料理と、夜の特訓の成果かな?」


「……夜の特訓って、プリンのこと?」


「ううん、これは夕食でしょ? 夕食じゃなくて、や、しょ、く! わたし、夏休みに入ってから、1時と4時にも目覚ましかけて、ごはん食べてるんだ。ゆーちゃんのおかずがないから、白米だけで味気ないけど、毎日ゆーちゃんが頑張ってくれてるから、私も私なりに頑張ってみたの。このペースならちゃんと冬までに2人前食べられるようになると思うから、今年のクリス……」


「2人前って、もう何十人分も食べてるじゃない?」


どうも雫さんのペースに乗せられるところだった。


「そうじゃなくて、ママの作る料理のこと!」


「お母さまの作る料理は、もう残さず余裕で食べられるって言ってたじゃないか!?」


「だから、そうじゃなくて……私はとにかく、もっとたくさん食べられるようになっておかないと、ママに好き……じゃなくて友達を紹介できないの! ゆーちゃんは、ごちそうを残したときのママの怒り方、知らないでしょ? だからとにかく、プリンちょうだい! お願い!」


どうも雫さんの話は、よく分からない。当時の僕がまともに理解出来たのは「プリンちょうだい。お願い」という最後の部分だけだった。僕が動かないでいると、雫さんは食べ物でパンパンに膨らんだ巨大なおなかを両手で支え、浅い息をしながら、冷蔵庫に向かってよたよたと歩き出した。いま出さなくても、僕が帰った後で食べるなら同じことだと思い直した僕は、冷蔵庫からテーブルへ、デザートのバケツプリンを給仕した。バケツプリンはいつものごと、翌朝までに跡形もなくなっていた。

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