目撃者(後編)
奇妙な注文の謎が解けたのは、7月も終わりのことだった。土曜日でなかったことは確かだ――確か火曜日だったと思う。
「お電話ありがとうございます、満腹中華の未来軒です」
いつものように電話を受けた私の耳に、あの美少女の綺麗な声が、途切れ途切れに聞こえてきた――息遣いの荒さも、あの日と同じだ。
「いつもお世話になっております……夢見ですが……エビチリ定食を……一つと……麻婆豆腐定食を……一つ……お願いします……」
「お風邪ですか? 大丈夫ですか? ご無理なさらず……夢見様のお宅になら、一人前からお届けに上がりますよ」
「……いえ、大丈夫です……今日は二人前……食べれそうなので……でもできたら……少し小盛りで……お願いします……」
電話口の声は、熱でもあるのか、浅く苦しそうな呼吸をしていた。そのときの私は、てっきりあの子が体調を崩し、ご飯が作れないから出前を頼んだのだろうと思い、エビチリや麻婆豆腐と一緒に、ポカリと冷えピタを持って出かけたのだった。
しっぽりと雨の降る日だった。私は出前を濡らさぬよう、大きな傘を肩と首に挟んだまま、両手にお盆を抱え、肘で呼び鈴を押した。
「はーい……今……うかがいます……」
呼び鈴を鳴らしてすぐに、奥から少女の声はしたものの、いつもの倍以上待っても、玄関の扉は開かなかった。学校から夏休みに持ち帰ってきたのだろうか、朝顔らしき蔓の鉢植えが、生温い雨に濡れながら、けなげに翌朝を待っていた。腕が、痺れてきた。
私はもう一度、呼び鈴を鳴らした。
「はーい……間もなく……伺いますので。少々……お待ちください……」
相変わらず途切れ途切れの声が、先程よりもやや近くに聞こえた。浅い息遣いがして、鍵がゆっくり開かれた。
「お世話になっております、満腹中華の未来軒で、す!?」
私は自分の声が、裏返ったのを聞いた。少し苦しそうな目元、上気した頬、滴る汗、荒い息、苦しそうながら健気に見せる微笑み、ブカブカのUネックからのぞく、もち肌と胸の膨らみ……それら一つ一つがグッとくるような、ある種の女らしさを醸し出していたことも否定はしないが、私の声を裏返らせたのはそのUネックの下、ダボダボのTシャツを押しのけて巨大に膨らんでいる胴体であった。
「どう……しちゃったの!?」
Tシャツがずり上がってしまわないよう、少女は左手でシャツをに押さえているらしかったが、パツパツに張りつめ、引き延ばされたTシャツは、その腹部全体を覆うにはあまりに無力で、お腹の中ほど、地球儀に例えるなら赤道のあたりにつっかえていた。バランスボールか何かをTシャツの中に入れて遊んでいるのかと一瞬思ったが、Tシャツの下、南半球に相当する部分はどう見ても人間の皮膚で、透き通るような白い肌に青い静脈が浮き上がって、生々しく照り輝いていた。オーストラリアのあたりに、内部の圧力に押されてひっくり返ってしまったお臍があり、少女の浅い息に合わせて僅かに上下動を繰り返している。
「どうも……してないですよ……」
まっすぐな瞳と、長い睫毛。見つめられて、こちらの頬まで染まってしまいそうになる。少女は微笑んで、ゆっくりとした動作でお盆を受け取り、玄関ホールのテーブルに載せた。
後ろ向きになっても、胴体が不自然に大きく膨らんでいるのが分かる。お腹側に大きく引っ張られ、皺が不自然に入ったTシャツから、背中の皮膚も覗いている。ほどよく脂肪のついた、柔らかそうな背中も、なんだかいつもより膨らんで見える。いや、見間違いではない。お腹側だけではなく、後ろにも左右にも胴体が膨らんでいるのだ。
「妊娠……ではないですよね?」
数日前、少年と一緒に沢山の注文を運んでくれたとき、この美少女のお腹は普通だった。今の少女のお腹は、大きさだけで言うなら、臨月……それも、双子や三つ子の臨月でないと説明のつかない大きさだ。妊娠だって、たった数日間で、普通サイズから臨月サイズにお腹が膨らむ筈がない。
「そう見えますか? お母さんのお夕飯を食べただけですよ、いつものことです」
驚いた私の様子を面白がるように、少女はケタケタと笑って、少しお腹を突き出して見せた。Tシャツが赤道から北極圏の方までポンと跳ね上がって、驚異的な膨らみが、いっそうあらわになった。肋骨直下から思い切り飛び出し、洋梨を逆さにしたような曲線を描いて、太腿の付け根までパンパンに張っている皮膚。三つ星のような黒子が、臍の左下に並び、皮膚の白さを際立たせている。
「今日は、このなか、ほとんどポテトグラタンなんです」
「へ!?」
またも私は、素頓狂な声を上げるしかなかった。ポテトグラタンが食べ物であるということ、少女がお母さんの夕飯を食べたということ、少女のお腹がこんなに膨らんでいるのは、お母さんが夕飯に作った大量のポテトグラタンを食べたからだということを理解するのには相当な時間を要した。
「お母さんのポテトグラタン、とっても美味しかったの」
そう言って慈しむように、少女がさすっているお腹は、確かに街で見かける妊婦より、上腹部が明らかに飛び出しており、その複雑な形態の背後に、パンパンに張り詰めた胃袋と、その中にみっちりと詰まっているポテトグラタンが見えたような気がした。
「お母さんの料理、どのくらい食べたの?」
「全部食べたよ。最近わたし、お母さんの料理全部食べきれるようになったの」
何人前、というような表現を期待していた私は、少し裏切られたような気がした。おそらく数人前では済まないだろう。十人、いや、二十人前食べても、こんなお腹になどならないのではないだろうか……そこまで考えたところでようやく、注文の謎が解けた。
「もしかして……今まで私が運んでた注文も、ほとんど君が食べてたの?」
「ええ、もちろん。ゆーちゃんも前よりずいぶん食べられるようにはなったけど、まだまだ全然だから……」
ゆーちゃん、と呼ばれているのが、おそらくあの少年なのだろう。
「それで、もしかしてこれも、これから、君が食べるの?」
「もちろん」
「おなか……すごいことになってるけど……」
「さっき量ったら、まだあと1キロちょっとは入るはずなの」
「キロって……」
食べ物をキロで数えることに、私は頭が追いつかなかった。
「既にお母さんの夕飯食べたんでしょ? なんでさらに追加で食べようとするの? うちの料理だって、これだけで二人前だよ?」
「だって練習しないと……」
「練習!?」
「私のお母さんね、お料理作るの大好きで、沢山お料理作っちゃうの。お料理全部食べると、とっても喜んでくれるけど、ちょっとでも残すと、いつもすっごく悲しそうなの……」
「でも、今日はもう全部食べたんでしょ?」
「そう。でもゆーちゃんを紹介するには、きっと、もっと、食べれるようにならなきゃなの。きっとお母さん張り切って、二人前料理作っちゃうから……」
きっと、私の思う「二人前」と、夢見家の「二人前」とでは、全然意味が違うのだろう。お母さんの作った大量の料理を、詰め込めるだけ詰め込まされ、パッツパツに緊満している、彼女の胃袋に私は同情したくなった。
「そんなに食べたら、お腹破裂しない? キャンセル料はいらないから、私、これ持って帰るね」
「だめー。ちゃんとお金払うから、置いてって。もうちょっと食べないと、おなか縮んじゃうもの……」
「……縮むって?」
「これはゆーちゃんの偉大な発見なんだけどね、お腹って、ちゃんと使ってあげないと縮んじゃうけど、毎日練習すればちょっとずつ大きくなるの。わたし、それに気づいてから、毎日練習して、お母さんの料理ようやく食べきれるようになったんだよ」
「練習って……」
「たくさん食べる練習。私、今日はまだお腹いっぱいじゃないから、もう少し食べなきゃいけないの。私、今年のクリスマスには、ゆーちゃんのこと紹介したいの」
「でも……」
大きくなりすぎたお腹のせいで、よたよた歩きしかできなくなっているような子の台詞ではないだろうと思いつつも、その眼差しに気圧されるような形で、私は回収を断念した。
「大丈夫。ちゃんと食べきるよ。私、食べ物は極力、残したくないの。だって失礼じゃない?」
代金を受け取って、帰る道すがら、私はずっと彼女のことを考えていた。パンパンの胃と、ミッチミチの胴と、火照った皮膚と、苦しそうな微笑みと、決意を秘めた眼差しとが、何度も何度も思い出された。人間の限界に挑むアスリートを尊敬の気持ちで見つめるように、人体の制限を超えようとしている彼女に、抗いがたく惹かれているのを実感した。