一年生
錆びついた取っ手を捻る。
ミシミシと音を立てながら立て付けの悪い鉄製の扉をゆっくりと開く。
今は使われていない旧校舎の屋上。
老朽化が進んでおり柵はところどころ壊れている。
本来ならば誰も人が立ち入らないような場所。
しかしそこにはすでに先客がいた。
一人の少女だ。
海岸に向かって体育座りをし、パックのイチゴ牛乳にさしたストローを咥えている。
つい一ヶ月前ぐらいのことだ。
僕がここでパンをかじっていると扉が勢いよく開かれた。
見ると息を切らした様子の一年生がその場に座り込んでいる。
すると彼女は突然焼きそばパンとイチゴ牛乳を取り出しランチをはじめた。
それ以来彼女は昼休みになると僕が居よう居まいがお構いなしにここでランチをとっている。
今日は制服だが時々赤ジャージを着ていることから一年生のようだ。
茶髪のボブで身長は一五五ぐらいだろうか。
まあ、小柄である。
毎回僕が入ってくると早く出て行けとばかりに睨みつけてくるのだがこの場所は僕が先に見つけていたのだから僕にこそ優先権があると主張したい。
僕はゆっくりと彼女に近づき二メートルばかり離れた所にどっこらせと腰を下ろし水平線の彼方に視線を投げる。
すると案の定、彼女は僕をちらりと確認し何故ここにいるんだとばかりにジト目を向けてくる。
まあ、いつものことだ。
ここ上鶴間高校は臨海部に位置している。
お世辞にも綺麗とは言えない日本海が校舎の北に広がっている。
吹き付ける潮風を肌に感じながらふと目を閉じる。
しかし、なんだかんだ言って僕はこの風が好きだ。
磯臭いこの風が。
磯の匂いというのはプランクトンや魚の死骸が腐った匂いらしい。
ひょっとしたら僕はたくさんの生物たちの死が生み出す香りに生を実感しているのかもしれない。
この瞬間だけだ、僕の世界に色があるのは。
死をもって生を感じるとは我ながら皮肉だな。
僕は自分が本当に生きているのかを実感できないでいる。
一度は世界の存在そのものを否定する事で自分の価値観を正当化しようともしてみた。
しかしその結果、僕の時計は止まったままだったということだけが分かっただけだった。
結局のところ生きるということは死んでいないということに他ならないはずだ。
つまり死んでないということは生きている。
心が空っぽだったとしても、生きる意味が何もなかったとしても、心臓の鼓動がリズムを刻むかぎり医学的には生きている。
あいつは死んだ。
とっくの昔に受け入れたはずの事実を再確認する。
そんなことを今更考えたってどうしようもないのは僕が一番よく分かっている。
それにたとえ生きていたとしても結局僕には何もできない。
あの頃と同じでただ見ていることしか。
仮に僕にもっと強大な力があったとしよう。
しかしきっと僕は何もできなかったのだろう。
弱者は弱者で臆病者は臆病者でしかない。
生きるとは何なのだろうか。
彼女が死に僕は生きている。
その意味とは?
その瞬間が幸せ、か。
ふと昨日のひったくり犯が思い出される。
障害になりうるものを片っ端から排除しても生を実感できなかった。
幸せへの過程は必ずしも幸せではないということだ。
僕は間違っているのだろうか。
なあ、どっかで見てるなら教えてくれよ、鈴那。
「……輩、先輩」
体を揺さぶられて初めて呼ばれていたことに気づく。
振り返ると例の一年生が僕の制服の裾をつまんで引っ張っていた。
一瞬呆気にとられる。
声が出ない。
僕は驚いていた。
当たり前だ。
そう、だってそれはいつものことではないのだから。
「あの、さすがに無視は傷つくんでやめてもらっていいですか?」
「お、おお」
口をついて出た言葉は驚きを表したようなそれでいて同意とも思える一音だった。
「あの、一つ相談したいことがあるんですけど」
「ぼ、僕に?」
何なんだこの一年生は。
変わっているとは思っていたがここまでとは。
僕に好き好んで話しかけてくる奴なんてこの学校にはいないと思っていた。
あの変人は例外として。
ひょっとして何かの罰ゲームなのだろうか?
「な、何故?」
「なぜってそりゃあんまり人に聞かれたくない相談だし、先輩なら友達いなそうだから広められることもないかなって」
間違ってはいない。
だがだいぶ舐められてるようだ。
「嫌だ」
簡潔にに結論を述べる。
「はあ? なんでですか」
「仮に僕に友達がいなかったとしても僕が君の相談に乗る義理はないだろう?」
「そのセリフがもう友達いないですよ」
この女。
初対面でここまで人を嫌いになったのは初めてだ。
はあ。
自然とため息がこぼれる。
「もういい、さっさと用件を言え」
するとそれまでの饒舌から一転、急に決まりが悪そうにもじもじしだした。
目は泳いでいる。
「えー、やっぱどーしよーかなー」
うざったいな。
「早く言え。僕も暇じゃないんだ」
嘘ではない。
だがそれ以上に僕は一刻も早くこの場から逃げ出したい思いに駆られていた。
「そ、そんなに気になるなら」
本当にむかつく女だ。
お前から話を振ってきたくせに。
「こ、これは私の友達の友達の話なんですけど、私の話じゃないですよ、私の友達の友達です」
その前振りは間違いなく自分の話だ。
「その友達の友達は私と同じ高校一年生なんです。はじめはうまくやってたんです。きっかけはほんとにささいで、そんなことでって思うようなことなんですけどそれが原因で」
「まったく意味が分からん、抽象的すぎる。もっと具体的に簡潔にまとめろ」
「仲間はずれにされてるっていうか、その……」
「いじめられてるってことか?」
「ち、違いますよ!」
一年生は食い気味に答える。
「わかったわかった、その仲間はずれにされてるお前の友達の友達とかいうのがどうしたっていうんだよ」
すると一年生は少し怒ったように答える。
「だーかーら、その子はどうしたらいいんでしょうねって話です!」
どうしたらって言われてもな。
「その答えを知っていたらこんな所で飯なんか食ってない」
一年生は目を大きく開けてパチクリとする。
「フフフ、アハハハハ……」
そして涙をハンカチで拭きながら大声で笑う。
「たしかにそうですね、私としたことがついうっかりしてました」
こんな相談は簡単に出来るものじゃない。
それも見知らぬ赤の他人に。
この子は一人で悩み、悩み続けやっとのことで誰かに相談するという道を自分の力で切り開いたのだ。
きっとそれはこの子にとって大きな決断だったに違いない。
しかしこの子は成し遂げた。
現状から一歩踏み出す勇気、それをこの子は持っていた。
僕が何年も探し続けているそれを。
僕にはないそれを持っているこの子が素直に羨ましく感じられる。
「君は強いんだな」
言った瞬間にまずかったと思ったが一年生はその言葉の意味を深く考えなかったようで
「そうです、私は強いんです」
と胸を張り答えた。
キーンコーンカーンコーン。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。