般若面
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
全力疾走。
皮下脂肪を蓄え込んだ腹が一歩前へ進むたびに波打つ。
邪魔くさい。やっぱり普段から電車じゃなくて歩いて通勤すべきだったなと心の中でぼやく。
「ゲホッゲホッ……」
手足が痺れ眼前が白く染まる。
たんは喉に絡まり吐き気を引き起こす。
たった数百メートルでもこのざまか。
日頃の自分に不満を押し付ける。
しかし、俺はここで足を止めるわけにはいかない。
もっとだ。
もっと遠くへ。
「ゼェゼェ……」
肩で息をしながら後ろを振り返る。
もう誰も追って来てはいないようだ。
ひとまずは成功と言ったところか。
これで四回目。
四十近いってのに全力疾走とは。
暗い夜道。
今夜は満月か。
汗ばんだ手に握られたハンドバッグに目をやる。
ふと冷静になることがある。
職を失い家族を失い行き着く果ては犯罪者。
俺が悪かったのかそれとも運が悪かったのか。
いや、やめよう。
よぎったネガティヴな感情を隅に退け目の前の金のことだけを考える。
とは言え、まったく楽な仕事だぜ。
会社をクビになり死のうと思ってたなんて馬鹿みたいだ。
毎日毎日歳下の上司にビクつきながら八時間も働くよりたった数十秒でそれより多く稼げる。
しかし警察に捕まっちゃ終いだ。そろそろ場所を変えるか。
よし、もう一、二度やったら隣街に移ろう。
後はさっさとこのスクーターに乗ってとんずらだ。
スクーターにまたがりキーを差し込む。
エンジンをかけるためスイッチを押す。
違和感。
「おいおいおいおい、どうしたってんだよ」
エンジンはかからない。
それどころかスクーターは黒い煙を出しながら唸り声をあげている。
「こんな時に」
壊れた。
ため息混じりにそんな言葉を吐き出すと同時に違和感の正体に気づく。
スクーターの配線がぐちゃぐちゃになってボディの外に飛び出している。
壊れたんじゃない、壊されている。
それも事故ではなく故意的に。
脂汗が頬を伝う。
落ち着け、まずは落ち着くんだ。
佐々木山春彦は冷静な男だ。
リスクリターンの計算を人よりも素早く正確に行えると自負している。
ひったくりと言えばスクーターに乗り歩行者の荷物を奪うイメージがあるが俺はそうしなかった。
ナンバープレート、スクーターの色、型から身元がばれるのを恐れたからである。
だから走って荷物をひったくり、少し離れたところに停めたスクーターでさらに遠くへ逃げる。
それが俺のいつもの手口だ。
だがスクーターが壊されている。
これには二通りのパターンが考えられる。
一つはただのいたずらでたまたま俺のスクーターが壊されたというパターン。
もう一つは俺の犯罪を知っていて逃走経路を狭めるためにスクーターを意図的に壊したパターン。
後者である確率は限りなくゼロに近い。
だが、万一、万が一そうだった場合は……
カツンカツン
足音。
反射的に背後を振り返る。
「ミスター佐々木山春彦」
路地裏に響き渡る不気味な声。
何者かが俺の名前を呼んでいる。
どっと冷や汗が溢れる。
「だ、誰だ?」
名前がバレている。
辺りを見回す、だが人影はない。
声は壁という壁を反射していてどちらの方向から聞こえているのか見当がつかない。
認めたくないがどうやらこれは後者だと見てよさそうだ。
だとしたら奴はどうやってこんな路地裏にスクーターが停めてあることを知った?
何故俺の犯罪を知ることができた?
ダメだダメだ。
今はそんなことはどうでもいい。
逃げなくては。
考えろ、考えろ、考えろ。
バイクは壊された。
更に俺はここまで走って来ていて疲れている。
他の足を見つけない限り逃げることはできない。
だがあいにく近くには鉄パイプやら空き瓶だとかが転がっているだけで何もない。
つまり逃走は不可能。
酸素を吸い込み、落ち着けと自分に言い聞かせる。
「歳は三十七、大学を卒業後、十五年間家電量販店に勤めていたがつい先月にクビになる」
声は近づく。
少しずつ少しずつ距離を縮まる。
だんだん事態が見えてきた。
前回、いやそれよりもっと前かもしれないが後をつけられでもしたのだろう。
確証が無かったのか知らんが奴は現行犯を捕まえようとしている。
この時点で一つの事実が浮かび上がる。
奴は警察ではない。
警察ならば少し怪しければ職質すればいいだけである。
「妻と娘は家を出て行きあんたは酒とパチンコに明け暮れ貯蓄が底をつく、まあそなるわな。そして生活費を稼ぐためにひったくりをはじめる」
俺を追っている理由はおそらく俺が奪った物の中に何か大事な物が入っていたからだ。
その声は続ける。
「君に同情の余地が無いわけじゃない。俺様だって君と同じ立場に追い込まれたらそうするかもしれないからな」
その声は五、六メートルまで迫っている。
相手が警察じゃないなら手の打ちようはいくらでもある。
その場しのぎにしかならんだろうが俺が奴から奪った物を返し、口止め料として今さっき取ったばかりのハンドバッグから金を払えばいい。
銀行から出て来たババアから奪ったから金はたくさん入ってるはずだ。
そして幸か不幸か奴は俺に同情的である。
「だったら……」
「だが君は二日後にある女の子からバッグをひったくろうとする、大目に見てそこまではいい。しかしそれを女の子に気づかれ、彼女を突き飛ばしてしまう」
男の声が遮る。
「ふ、二日後?」
こいつはいったい何を言って……
「そこにたまたまトラックが通りかかり女の子は撥ねとばす。それ以降彼女は後遺症として歩けなくなっちまう。こいつはダメだ、こいつはいけねえ」
この男は一体全体何のことを言っているんだ?
「け、警察だけには言わんでくれよ」
「それともう一つ。俺様は怒ってるんだぜ」
月明かりに照らし出された顔には面がつけられていた。
般若の面が。
「な、なあ、あんたが俺のことをどこまで知ってるのかは分からねえが見逃してはくれねえか? 俺にもこうするしかなかったんだ、この年じゃどこも雇ってはくれねえ、アルバイトだけじゃ生活するのだって無理だ」
般若面にスーツという不可思議な格好。
背丈は一七〇と少しといったところか。
中肉中背。
ちらりと足元に転がる鉄パイプが目に入る。
そこで一つの冴えた考えを思いつく。
最低で最悪でそれでもって最高な考えが。
両手を挙げ地面に跪く。
「俺があんたから取ったものは返すしこの金もやる。もうこんなことはやらないしこの街からは出てく。だから頼むから見逃してほしい。それにあんたの妄言を信じるとしてもその女は生きてるんだろ、ならいいじゃねえか」
額をアスファルトに擦り付け土下座する。
仮面の男は俺を見下すように立ったまま動いていない。
仮面をつけているため目線が分からないし表情も分からない。
おそらく奴は警戒している。
今襲いかかってもかわされてしまう可能性が大きい。
「そ、そうだ」
ハンドバッグの口を開き財布を取り出す。
財布を強引に開け、中から乱暴に札束を掴む。
「ほら見てくれ、これで全部だ」
財布の口を開き仮面の男に見せつける。
瞬間、同時に鉄パイプを掴み男に殴りかかる。
いくら目線が分からなくても今この時だけは奴の目線は財布の中にあるはずだ。
つまり奴は咄嗟に俺の攻撃に対応できない。
俺の勝ちだ。
「くたばれ、このクソガキがぁ!」
ギュィィィィィン
それは明らかに人肌を鉄が殴った音ではなかった。
金属と金属のぶつかり合う音。
「ひぃっ」
思わず鉄パイプを落とす。
肩に金属パイプの一撃をくらったはずの男はだるそうにため息をつく。
「人間の本質ってのはそう簡単に変わるものじゃないし変われない。臆病者はどこまでいっても臆病者だしクズはどこまでいってもクズだ」
「ば、化け物」
腰が抜けて立てない。
仮面の男は肩からから鉄板を取り出す。
どうやら服の中に予め鉄板を入れておいたらしい。
しかし、何故俺が肩を殴ると分かった?
それもピンポイントで。
それではまるで未来でも見えているようじゃないか。
「言葉でどんなことを言ったとしても腹の底では何を考えているか分からない。じゃあ君に質問だ。俺様はこれから何をすればいいと思う? 何をすべきだと思う?」
いや、そんはずはない。
今のはまぐれだ。
運が悪かっただけだ。
ならば今度こそ。
震える足を無理矢理動かし右腕で殴りかかる。
「死ねえ!」
しかし仮面の男は首をほんの数センチだけ動かしてその拳はかわす。
まずいと思ったときにはもう遅かった。
顔面を鷲掴みにされて地面に倒され後頭部をアスファルトに押し付けられていた。
「あ、あんたはいったい何者なんだ?」
「俺様は、モスフロックス。ところでさっきの質問だが時間切れだ。答えは物理的に不可能にする、だ」
「ぶ、物理的に?」
「ああ。物理的にだ」
すると彼は人差し指を逆方向に硬い靴裏で容赦なく踏みつける。
身動きが取れない。
まずいこのままでは……
パキッという音と共に激痛が感覚神経を通り脳に伝わる。
「ぎゃぁぁぁ……」
こ、殺される。
涙を流しながら這うようにして路地裏の奥に進んでいく。
「い、痛えよぉ、悪かった、悪かったから命だけは」
必死の懇願。
しかし彼はゆっくりと近づいて捨てられていたノコギリを拾い上げる。
「君は一つ勘違いをしている。大きな勘違いを」
「か、勘違い?」
「俺様がこうするのは別に君がさっき殴りかかってきたからでも君に物を盗られたからでもない」
「そ、それじゃどうして?」
嗚咽を堪えながら声を振り絞る。
その時、彼が笑ったような気がした。
彼は仮面を被っていたし表情なんてのは見えないはずだが彼は確かに笑ってこう言った。
「個人的な復讐さ」
深夜の路地裏に男の悲鳴が響き渡る。
近隣住民の通報を受け警察が到着したときには指の無い男が一人、路地裏に転がっているだけであった。