プロローグ
突然だが僕らがいるこの世界とは一体何なのだろうか。
こういった哲学的な疑問は誰しもが人生で一度は考えたことがあるはずだ。
答えは出るはずもない。
宛のない迷路。
何百年も前の有名な哲学者達ですら分からなかったのだ。
高校生なんかが少し考えて答えが出るようなら誰も苦労しない。
だけれど個人がそれぞれ違った結論を持つ、それが哲学なのだ。
だから僕もまた一つの結論を出している。
まずこの世界が何なのかを考えていくには自分自信の定義が必要不可欠である。
回りくどいが教科書的に定義するならミクロ世界の細胞一つ一つが形成する器官のまとまりであるところの組織の集合体。
それが個体、いわゆる僕ら生物だ。
そのことを前提として考えるならば世界というのはちっぽけな僕ら一個体が存在する広大な宇宙と言っていいだろう。
切り口を変えてみよう。
「我思うゆえに我あり」
これはフランスの哲学者、デカルトが方法序説の中で述べた命題だ。
要はこの世界に存在するすべてのものは本当に存在すると証明することが出来ず、唯一それを考えている自分だけが存在していると証明出来るといったものだ。
僕たちが言うところの神なる存在が人類を外側から観察しているのかもしれないし、僕らがこの世界をつくっている神様で僕らが見ているものはすべて僕らの頭の中で起こっている妄想でしかないのかもしれない。
とするとこの場合、世界というのは幻やバーチャルリアリティの類である。
ここで大切なのは一つの物事について二つの見方が存在しているということだ。
この場合、どちらが正解だと言い切ることはできない。シュレディンガーの猫しかり観測することが出来ない以上、どちらの可能性も重なり合って存在している。
つまり僕が何が言いたいかというと、物事は捉え方次第だってこと。
事象という名の立体は切り取る角度によって違った面を観測者に見せる。
一言でまとめるとするならこの世界は無限の可能性が重なり合っている。
この哲学的結論は現実のあらゆる場面にも適用される。
例えばここに一人の男がいるとしよう。彼は悪に制裁を与え街の秩序を守っている。
強きを挫き弱きを助ける。
人々は彼を正義の味方やヒーローと呼ぶだろう。
しかし当の本人には正義や善意といったものは何もない。すべては復讐のため。彼を動かす原動力は黒く濁った醜い感情でしかない。
ではここで質問だ。
彼の行動は正しいのだろうか。
また彼の行動は間違っているのだろうか。
先程の話をなぞるならこの事象をまったくもって公平な視点から観察することができない以上、どちらが正解とも言い切ることはできない。
そもそもまったくもって公平な視点というのはそれこそ神以外にはありえないわけで。
とりあえず僕の考えをまとめるとするなら
「善と悪は常に重なり合っている」
そんなところではないだろうか。
だが、一つ忘れないでほしい。
これもまた僕という一個体が見ている一つの側面に過ぎないということを。
「どうしたんですか? そんな難しそうな顔して。コーヒー冷めちゃってますよ」
思考は中断され意識が現実世界へと引っ張り上げられる。
水面から顔を上げる感覚。
突然かけられた声に半ば反射気味に答える。
「涼乃……さん」
「はい、涼乃です」
二人がけのテーブルの対面に女が座る。
肩ほどの黒い髪を後ろで縛り、腹のあたりにペンギン印のついた緑のエプロンを下げている。
氷川涼乃、十六歳。
彼女は都内の都立高校に通う高校一年生。
放課後は住み込みでここの喫茶店、『ふんぼると』でアルバイトをしている。
その包み込むような笑顔は自然と周囲の空気を和ませる。
彼女の座り方一つをとっても温厚篤実が伝わってくるようだ。
咄嗟に彼女に固定した視線をすぐにコーヒーカップに戻す。
「少し考え事をしていて」
「考え事、ですか? 二時間も?」
涼乃は首をかしげる。
沈黙。
普段あまり人と話すことに慣れていないせいかたった一言二言のキャッチボールですらボロが出る。
「い、いえ、べつに大したことじゃないんです、お気になさらず。それより涼乃さんはどうぞお仕事に戻ってください」
すると彼女は少し困ったように、それでいておかしそうに笑顔を見せる。
「仕事といっても、お客さんはもう未来さんしかいらっしゃらないんですが」
慌てて店内を見回すとたしかに自分以外の客は一人もおらずそれどころかマスターは外で看板を片付け始めていた。
急いで手元の携帯を確認する。
21時11分。
ふんぼるとの閉店時間は21時。
営業時間を十分以上も過ぎている。
「す、すいません。これ飲んだらすぐ帰ります」
急いで飲み干そうと冷たいコーヒーカップを慌ててつかむ。
「え」
暖かい感触。
突然、涼乃の温かい手がカップをつかんだ僕の手を優しく上から包み込む。
「考え事、私でよかったら聞きますよ。マスターには片付けは私がやっておくって言ってありますので」
そのやわらかい笑顔を向けられ思わず顔がほころぶ。
そして自覚する。
無意識に、だが確実に重ねてしまっていることに。
涼乃さんと誰かの面影を。
気持ちが悪い。
そんな自分自身に吐き気がする。
湧き上がる自己嫌悪を喉の奥へ押さえつけ作り笑いを顔にへばりつける。
笑顔は得意だ。仮面をかぶったあの日から毎日鏡の前で練習している。
ほら、口を閉じ口角を上げて。
そう、自然に、自然に……
「す、涼乃さんは、涼乃さんはこの世界は本当に存在してると思いますか?」
気が緩んでいたのか彼女に対する背徳感がそうさせたのかは分からないが気づいた時にはそんな言葉が口から出ていた。
涼乃さんの反応を確かめようと恐る恐る顔を上げる。
すると彼女は驚いたような顔をしてからクスクスと笑いだす。
「ごめんなさい、だっておかしいんだもの」
「は、はあ?」
一気に緊張がとけたおかげで呼気とも呼べる間抜けな声をあげてしまった。
「未来さんって本当におもしろいんですね」
「それはいったいどういう……」
浮かぶ疑問をそのまま投げかける。
「もしもこの世界が存在しないとしたらなんで未来さんはコーヒーを飲むんですか?」
返答に戸惑う。
何故コーヒーを飲むのか。
食事を単なる生命活動の維持という意味で考えるならば毎日300円も払ってわざわざ喫茶店でコーヒーを飲む必要なんてない。
それなら何故……
「それは涼乃さんのコーヒーが美味しいからですよ」
まあ、詰まる所これが理由なのだろう。
コーヒーを飲みたいだけなら自分で淹れた方が安価で済む。
僕は飲みたいんだ、涼乃さんが淹れてくれたコーヒーを。
「ふふ、ありがとうございます。でもそういうことですよ。この世界が存在してるかなんてどっちでもいいんです。その瞬間が幸せならいいんです」
彼女の遠くを見つめるような目を見ていると心が締め付けられるように痛む。
「そういうものですか?」
「そういうものです」
「だからこうしてあなたと話してるのがたとえ嘘だったとしてもそんなこと関係ないんですよ」
涼乃さんは微笑みながらこう続けた。
「私は今、楽しいんですから」
席を立ちレジで会計をすませる。
表面的な考え方だと思う。それは現実逃避でしかない。後先を考えず目の前のことしか見ようとしない。
それでは問題は進展しないし、ましてや解決なんてするはずもない。
だが、彼女が言いたかったのはそういうことではないように思えた。
無理に結論を出そうとして焦る必要などはない、その過程の一瞬にこそ価値がある、多分そういうことだろう。
「その瞬間が幸せ、か……」
店を出て彼女の言葉を繰り返す。
俺は今、幸せなのだろうか。
俺は今、楽しいのだろうか。
そんな自問自答を繰り返しふと気づく。
「ふふっ」
自然と自虐的な笑みがこぼれる。
つまり僕は彼女にそんな言葉を言わせるぐらい余裕がないように見えていたのか。
彼女の気づかいは素直に嬉しい。
だけれど僕にはやるべきことがある。
僕の幸せはその先にある。
ならば幸せのために努力しているこの過程は、少なくともこの瞬間は、幸せなはずだ。
大炊御門未来は正義の味方じゃない。
幸福な復讐者だ。