妹君ー後編ー
それからしばらくは、彼女と関わることはなかった。しかし、残暑の厳しい季節になると、女四の宮が体調を崩したという噂を聞いた。もともと身体の弱い姫なのである。
これはよい口実ができたと、良く効くという唐渡りの薬を手に、右近衛中将は女四の宮が母女御と姉妹と暮らす二条殿に訪れた。
女房たちにはずいぶんと訝しまれたが、そこはとっておきの切り札がある。中宮の使いだと言えば、すんなり通してもらえた。まったく、妹さまさまである。
東の対屋の廂に入ると、昼の御座に姫宮はいた。
「わざわざいらしてくださり、ありがとうございますわ。」
またしても、彼女は自分よ声で答えた。
「いえいえ、姫宮が心配でしたので。薬をお持ちしました。……しかし、寝ていなくてよいのですか?」
「……えぇ、大丈夫です。ご心配をおかけしまして、申しわけありません。」
「ははっ、謝らないでくださいよ。私が勝手に心配しただけです。」
中将がにこやかにそう言うと、若い女房は頬を染め、年かさの女房は胡散臭そうに中将を見た。
ふむ、どうやら悪い噂がこの屋敷に届いていないわけではないらしい。そう、中将は良くこうして高貴な女人のところに押しかけ、口説き落とすのだ。今のところ、中将の全勝。
「……みな、少し下がっていて貰えますか?中将殿に話があります。」
「ひ、姫様!」
それはだめだと女房たちが騒ぎ立てる。
しかし、
「お黙りなさい。」
姫宮も頑固であった。
しぶしぶ女房たちが下がっていく。
「お話……とは?」
二人っきりになったところで声をかけると、姫宮は少し考え……何を思ったか、御簾を持ち上げて姿を見せたのだ。
「なっ、姫宮!?」
なんと大胆な。慌てて姿を見ないように目をそらす。
「こちらを向いてください。謝るのに相手の顔も見ないのは失礼だと思い、こうしたのです。」
「あ、謝る?」
おそるおそる視線をやると……
少し幼い顔立ちで、だいぶ冷たい表情の美しい姫がいた。気高い猫のような娘だと思った。灰桜の袿がそう思わせたのかもしれない。
「先日、失礼なことを申しました。若いのに高い位を頂いてはいると。わたくしは良い意味で言ったのですが、悪い意味にもとれるとあとで気付きまして。」
本当に申しわけありません、と姫宮は頭を下げた。つり上がり気味の目尻が情けなく下がり、しょげた猫のようだった。
「……ふっ、ははっ。意外と真面目な人なのですねぇ、姫宮は。」
「なっ、どうして笑うのですか、人が謝っているのに!」
「いや、すみません、すみません。」
拗ねた声で言われ、中将は慌てて笑いを引っ込めた。
「気にしていませんよ。家のおかげでこの位をいただいているのは事実なので。」
「で、でも……」
「……はいっ、この話は終わりにしましょう。」
ぽんっと手を叩いて笑いかけると、姫宮はしぶしぶ頷いた。
「それよりも、今日はもう一つ大事な話があります。」
急に真面目な顔をした中将に、姫宮は首をかしげた。
「なんでしょう?」
「私も、昨日聞かされたばかりなのですがね。」
さっと姫宮のもとまで行って、その華奢な手をとった。彼女は驚きのあまり固まっている。
「どうやら、貴女が私に降嫁する話があるみたいなのです。」
******
これまた意外なことに、彼女は中将との結婚を断らなかった。
相変わらず懐かない猫のようだが、婚姻はとんとん拍子に進み、今に至る。
が、最近やたらと口うるさい。帰りが遅いだの、知らない香の匂いがするだの。
はぁ、と大きなため息をついた。
牛車は中将の自邸に向かっている。結局帰っているのだ。
ほどなく屋敷につき、中将は勇気を振り絞って北の対屋の妻のもとへと向かった。
彼女はいつも中将が帰ってくるまで起きている。かくしてそこには、夜着に袿を一枚引っ掛けただけの姿で、書を片手にうつらうつらしている姫宮がいた。
「起きていなくてよいと、いつも言っているではありませんか。」
そう言って、落ちていたもう一枚の袿をかけてやると、姫宮は鋭い目つきで見上げてきた。
「わたくしも、いつももっと早く帰ってきてくださいと申しております。」
じとっと見つめられ、仕方ないなぁと頬をかく。
「……すみません。」
抱き寄せようとすると、ぱしっと手を払われた。
「お酒臭いのでいやですっ。」
ぷいっとそっぽを向いた。参った、予想以上に機嫌が悪い。
「あなたはどうしてそうしないいつも拗ねているのですか……」
思わず呟くと、彼女はちらっとこちらを見て、また目を逸らした。どうやら答えてくれないらしい。
「着替えてきます……」
と、彼女から離れようとした時だ。
きゅっと袖が引っ張られた。
「…姫宮?」
「……からです。」
「えっ?」
声が小さくて聞こえない。
「…あなたの帰りが遅くて、寂しいからです。だから、わたくしはいつも拗ねているのです!」
最後はやけくそのように言っている。しかし…珍しく甘えてくれている。
「……だったら、初めからそう言って下さいよ。そしたら私は早く帰ってくるのに。」
「あ、あなたはっ…」
何か抗議しようとした口を無理やり塞いだ。食むように小さな唇を押し分けて深く口づけると、姫宮の狭い口腔はすぐにいっぱいになった。唇を離すと、姫宮は苦しげに息を吐く。
小さな身体をそっと抱き上げ褥に運ぶ。冷えてしまった彼女の手足を温めるように身体を寄せる。
「ね……子猫の宮、良いですよね。」
二人だけの時の特別な呼び方で、彼女の耳にささやいた。
翌朝、姫宮の小言を大量に聞くことになるのを、中将はまだ知らない。
******
夜はとっぷりと更けていた。
「お兄様はもうお帰りになったかしら……」
中宮は褥から身を起こして、御簾からこもれる月光を見つめた。
「中宮さま…?」
声に気付いたのか、女房の一人が起きてきて心配そうに問う。
「…誰か来るわ。」
「え?」
中宮のいる藤壺は最も清涼殿に近く、主上のお召しで清涼殿に渡る妃の姿がよく見えた。
中宮は局を抜け出して、簀子に近い廂に出る。
「ち、中宮さまっ。」
「静かにして。」
さやさやと衣ずれの音がして、清涼殿へ渡る妃の姿が見えた。宣耀殿女御だ。
衣を握る手が白くなる。良くも自分の────中宮の兄と話したあとに他の妃を召せるものだ。その神経の図太さに、ほとほと嫌気がさす。
宣耀殿女御が藤壺の前に来た。
「……お召しだというのに、ずいぶん遅いお渡りだこと。」
突然人の声が聞こえて、宣耀殿の一団は不審げに女御をかばう。しかし、すぐに相手が中宮だと分かったのか、今度は自慢げに胸をはった。
「急なお呼びでしたのよ。中宮さまの兄君とお会いして遅くなるのに、わたくしに会いたいだなんて、可愛らしい主上。」
ふふっ、と宣耀殿女御は嫌みったらしく笑った。
「中宮さまこそ、お召しでもないのにこんなに遅くまで起きていらっしゃるなんて。」
宣耀殿女御が御簾に顔を寄せてささやいた。
「…待っていらしても、あの方が貴女のもとを訪れることはないわ。」
ねぇ、わかって中宮さま。
勝ち誇ったように満面の笑みを浮かべて宣耀殿女御は清涼殿へと渡っていく。
中宮はただ、唇をかみしめてその姿を見送るしかなかった。
深い夜の空は、先ほどまでの名月を、厚い雲の下に隠した。
やっと、やっと、どろどろしてきた。