月風ー後編ー
「今日は月が綺麗ねぇ、山千紗。」
「そうね……あっ、扇はこっちにしよう。」
山千紗が菖蒲の絵扇を手に取る。
「……ちょっと、それわたしのよ?」
「貸してよ。主上のもとへ行くのだから、きちんとしていかないと。」
今夜はどの妃も寝所に召されないらしい。この間綾雲が夜の当番だった日から三日たったが、その間に弘徽殿女御が召された。その日に仕事がなくてよかったと、綾雲はほっとしたのだが、今宵は友人を送り出さなければならない。
「あなた恋人がいるのに、何を期待しているのよ……」
「それはまぁ、一夜の夢をみてみたいとか……?」
紅の匂いの襲の色目を確認しながら、山千紗更衣はため息をついた。
「あーもうっ、今日は彼と会う約束をしていたのに、断ったのよ……」
行きたくないなぁ、と山千紗更衣がつぶやく。
ふっとぬるい風が吹いた。
綾雲ははっと顔を上げて月を見る。……誰かに呼ばれた気がした。
「……ねぇ、山千紗。」
「なに?」
「今日の仕事、代わってくれないかな。」
山千紗更衣は驚いた顔で何度かまばたきをした。
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「おや、そなた三日ぶりか……?」
房に入った綾雲を見るなり、八十葉帝は首をかしげてそう言った。
自分の顔を覚えてくれていたのかと思うと、人知れず綾雲の胸は高鳴る。
見ると、八十葉帝は冠をはずしてつややかな黒髪を背に流し、直衣を着崩していた。
「……あ、遅くなり申し訳ございません。」
「よいのだ。どうせ、今夜も他の者から頼まれたのであろう?」
「あの、それはその……」
口ごもる綾雲に、八十葉帝はひらひらと手を振った。
「まぁ、よい。」
ぞんざいに言い放たれた言葉に、少し刺があるような気がした。
「何か、ありましたか……?」
思わずそう言ってしまい、綾雲ははっと口元を抑える。
「申しわけ─────」
「なぜそう思う?」
綾雲の言葉を遮り、八十葉帝が問う。
「あの……いつも以上にお疲れのご様子なので……」
そっと答えると、八十葉帝は苦笑した。
「そなたには見破られてしまうな。」
そう言って、外の方を見る。御簾も格子戸も下げられているのに、八十葉帝の目はそれらが透けてでもいるかのように、夜の空をにらみつけていた。
「いつもの事よ……夜は怖い。恐ろしい夢を見るのだ。この上なく、恐ろしい夢を。」
「主上……」
恐ろしいという言葉さえも戯れ言であるかのように、彼の横顔は静かだった。しかし、綾雲にはその言葉が真実だと分かる。八十葉帝の手が小さく震えていたのだ。
「あのっ、あの……主上。今宵はわたし、自分の意思でこちらへ来たのです。今日の担当の方に代わって欲しいと言って……先ほどの問い、わたし今宵は自分で─────」
何かしてあげなければと話している途中で、どさっと綾雲は八十葉帝の腕の中に倒れた。八十葉帝が強い力で綾雲の手を引いたのだ。
「あ、あのう……」
「なぜ、そのようなことを。」
呆れたように問われる。
綾雲は唇を噛んだ。高望みをしてはいけなかったのに。この麗しい少年と、自分では身分が違いすぎるのに。
「……ては、なりませんか。」
「なんだ……?」
きっと分かっているだろうに、八十葉帝は綾雲の言葉に首をかしげる。彼の吐息が頬にかかり、綾雲はぞくりと何かへの期待に身を震わせた。
「お慕いしては、なりませんか……!」
羞恥に涙目になりながら、僅かな期待を込めて八十葉帝を見上げると、彼は小さく息を飲んだ。
「更衣、そなた……そなただけには手を出さぬと決めていたのに。そなたは後宮で生きていくには、純粋過ぎる。……それでは、女たちの悪意を受け止めきれない。」
困ったようにそう言って、綾雲を離そうとする。綾雲は八十葉帝のそでをつかんだ。
「いやっ、離さないで……」
ぽろりと涙がこぼれた。それを八十葉帝が手で拭い─────ふたりの唇が重なった。
「……月がよく陰るかもしれぬ。それでもよいなら。」
「……いつも月が煌々としていても、眩しゅうございます。わたしは高望みはしませんゆえ。」
時折、その情けをくれるだけで良いのだ。自分のようなものが主上の寵を得られるだけでも幸運というもの。
「ですから……それでもよいですから、そばに居させてください。」
ふっとこぼした吐息は、八十葉帝の吐息と混ざり合った。
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明朝、八十葉帝の衣を持ち、更衣たちは清涼殿に向かっていた。
「ねぇ、綾雲更衣はどうしたの?」
一人の更衣の問いに、山千紗更衣も首をかしげる。
「私も分からないのよ。昨日、急に仕事を代わってくれないかって言われて……」
更衣たちの頭にあることが浮かぶ。
「まさか……ね。」
ひそひそ話しているうちに清涼殿の帝の寝所についた。
「……主上、失礼いたします。」
礼をとり、顔を上げた更衣たちは目を見張る。
重なる大袿と女物の衣。その上にたゆたう、色素が薄くゆるく波打つ長い髪。
「綾雲更衣……?」
まっすぐな黒髪がもてはやされる世にあって、この後宮という女たちの苑で、色素の薄い綾雲更衣は目立っていた。
八十葉帝が前髪をかきあげ、ゆるりと目を開けた。驚いて固まる更衣たちを見て、あぁと苦笑する。
「……綾雲、綾雲、朝だぞ。」
己に寄り添って眠る綾雲更衣に、八十葉帝は優しく呼びかけた。
綾雲更衣が小さく身じろいで目を開ける。
「……おはようございます、主上。」
囁くような声でいい、綾雲更衣は八十葉帝の頬に唇を寄せた。直視することが出来ず、更衣たちは目をそらす。
「どうした?まだねぼけているのか、皆が見ておるぞ?」
笑みをこらえる八十葉帝の言葉に、はっとしたように綾雲更衣は振り返った。山千紗更衣と目が合う。
「あ……あの」
何かを言いかけた綾雲更衣にこれ見よがしにため息をついて、山千紗更衣は口を開いた。
「誰か、綾雲更衣さまのお召し物をとってきて頂戴。」
ただの更衣と、主上の手がついた更衣とでは格が違う。出世をした友人に、いいものを捕まえたわねと思いながら、山千紗更衣はふふんっと自慢気に鼻を鳴らした。