月風ー前編ー
夏のじっとりとした風が吹く。
月が雲に隠れる。局に差し込む月光が陰り、綾雲は衣を掴む手を止めた。
「更衣?如何した。」
己を呼ぶ声にはっとして上を向く。
すると、心配そうに綾雲の顔を覗く男の顔がすぐそこにあったので、綾雲は慌てた。
「も、申し訳ありません、主上。」
急いで主上・八十葉帝の夜着の帯を締めて、綾雲は彼から離れる。
「どうぞ、お休みなされませ。」
「あぁ。」
礼をとった綾雲に八十葉帝に返事を返したとき、びゅうっと強い風が吹き御簾が巻き上がった。
一瞬、戸を閉め忘れたのかと思ったが、そんなはずはない。きちんと閉まっている。
八十葉帝を見ると、彼は御簾越しに夜の空の虚空をにらみつけていた。
「あの、どうかいたしましたか?」
そっと声をかけると、八十葉帝ははっと目を見開いたあと、ゆるりと首を振る。
「いや……なんでもない。」
そうつぶやいて八十葉帝は綾雲に視線を戻した。
「それよりそなた、昨晩も見た気がする。更衣の仕事は日によって変わるのではないのか?」
十七歳という、まだ少年とも言える年に似合わない重々しい口調で言う。
「あ、あの、それは……」
綾雲は口ごもった。
更衣、というのはこの後宮における女性の官職の名称である。後宮には皇后、中宮を筆頭に沢山の女御方、つまり妃たちが住んでいる。更衣はたびたび、女御より下の妃の位と考えられたが、本来は主上の衣の管理や着替えの手伝いをする女官のことである。
だが、やはり帝のそば近くに侍れるとあって、妃になれない中流貴族の姫君が帝の寵を求めて、更衣となっていた。
綾雲は帝の寵を求めて更衣になったわけではなかったが。
歴代の帝はいずれも更衣を妃の一人としているものが多い。東宮時分に更衣に身籠もらせる帝もいた。そうして生まれた身分の低い皇子の多くは不遇の人生を歩むこととなるが。
しかし、八十葉帝は、更衣の誰にも手をつけていなかった。
「……主上が賢帝であるがゆえでございます。」
少々皮肉のような響きでつぶやくと、八十葉帝はしばらく目を丸くして固まっていたが。そのあとすぐに、小さく吹き出した。
「ははっ、そういうことか。私が更衣には手を出さないから、更衣たちは出世を諦めたんだな。それで、面倒な夜の仕事は誰かに任せてしまえと。」
笑声をかみ殺して笑う八十葉帝に今度は綾雲が目を丸くする番だった。笑っていると、主上も普通の少年に見えた。
「お嫌でしたら、主上の方から上官に言って頂けると……」
「いいや、気に入った。そなたはそのまま勤めよ。」
「……承りました。」
あぁ、と満足げに頷いた八十葉帝に、
「では、もうお休みを。お疲れのご様子、お体を大切になされませ。」
と、そう言った綾雲はわずかに目を瞠った。
八十葉帝が泣きそうに顔を歪めたように見えたのだ。
しかしそれは一瞬で、すぐにいつも通りの心の読めない表情に戻ってしまった。
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「ごめんね、昨日の仕事代わってもらっちゃって。」
翌朝、身支度を整えるなり、隣の房から同僚の山千紗更衣が顔を覗かせた。
「いいわよ。それよりも、どう?雅楽寮の方とは上手くいっているの?」
「えぇ、おかげさまで。」
ふふんと、自信ありげに山千紗更衣は鼻を鳴らした。彼女には雅楽寮に勤める恋人がいるのだ。
「いいわねぇ、楽しそうで。」
綾雲は苦笑しながらつぶやく。
「あなた、そんな風にのんびりしていると婚期逃すわよ。どうせ主上は私たちなんて目もくれないし、早いとこ相手捕まえとかないと。」
「そうね、考えておくわ。」
今度はちゃんと仕事するから、と言う山千紗更衣とともに仕事に向かう。
女官たちの曹司になっている登華殿を出て、貞観殿への渡殿を歩く。
「あっ、主上じゃない?ほら、常寧殿のとこ見て。」
「え?」
山千紗更衣が扇でそっと隣の殿舎を指す。確かにそこには八十葉帝がいた。
「この先……だと、宣耀殿へ向かっていらっしゃるのね。こんな朝早くから…きっと宣耀殿女御がわがままを言ったのよ。」
山千紗更衣の言葉が耳をすり抜ける。
光を浴びる、明るい萌黄色の青朽ち葉の襲の直衣を着た美しい帝の姿を、綾雲はただ黙って見つめていた。
「どうしたの?」
山千紗更衣が心配そうに問う。綾雲は慌てて首を振った。
「なんでもないわ。」
ただ、綾雲より一つ年下の少年帝が、完璧な笑みを浮かべて後宮の花を渡り歩く姿に少し胸がざわついただけ。