花鬘
安成元年、八十葉帝が二十歳を数えた年の冬に、先帝広之瀬帝が薨去した。もともと病弱であり、それを理由に八十葉帝に譲位した人ではあったが、風邪をこじらせてあまりにも早くお隠れになってしまったのだ。
兄とは言え、とくに親しく接した記憶はない。
ただ、春に姫宮を産んだばかりの女御が気がかりだ。
「……弘徽殿は大丈夫だろうか。」
ふと思い出したのは、久しく顔を合わせていない妃、弘徽殿女御のことだった。彼女は花鬘女御の妹なのである。
「誰か、誰かあるか。」
「お呼びでございますか、主上。」
声をあげるとすぐに蔵人頭が現れた。
「弘徽殿はどうしている?」
「……弘徽殿女御さま、でございますか?はぁ、筒がなくお過ごしと聞いておりますが。」
「そうか、少し顔がみたい。先触れを出せ。」
あの妃は感情を表すのが不得手だ。実は姉を心配して不安に思っているのではないか。
そう思って、会いに行こうと言うと、蔵人頭は首を横にふった。
「それは無理かと。……弘徽殿女御さまはただ今姉君に会うためにお宿下がりなされておりますゆえ。」
「……なんだと?」
*****
宿下がりのお許しは思っていたよりも簡単に出た。これは弘徽殿女御の予想であるが、おそらく主上のもとまでは奏上されずに側近あたりで判断がなされたのだろう。寵愛を得ていない妃の立場は、人が思うよりも安い。
姉の花鬘女御は広之瀬帝の朱雀院御所を下がり、実家の桐蔭の屋敷にいるそうだ。少しは落ち着いた頃かと思って、弘徽殿は姉を訪ねることにしたのだ。
「元気にしていた?少し痩せたのではないの。」
自分のほうがよっぽどやつれているというのに、花鬘の君は姉らしく弘微殿の体調を心配した。
「……わたくしは元気です。お姉さまこそ、もう起きていてよろしいの?」
このほどお隠れになった広之瀬上皇の二の姫宮を産んでから、姉は体調を崩しがちであると聞いている。今日会ってみて思ったが、確かに幽鬼にとりつかれているかのように青白い顔色で、衣の合わせからのぞく首もとなどは、もともと華奢なほうではあったが、さらに細くなったようだ。
「わたくし、この子を守らないといけないから。」
けれど、そう言って浮かべた笑顔は力強い。
「ふふっ、わたくしがお見舞いに来たはずなのに逆に励まされた気分です。」
幼い頃から儚く美しくて、誰よりもお姫さまらしかった姉。憧れて、いつも劣る自分。こんなときまで……
「あらあら、何か悩み事?……って聞くまでもないわね。妃の悩みは常にひとつだわ。」
近寄ってきて、先の花鬘の君は弘微殿の髪をそっとなでた。
細くてさらさらと流れる髪を、弘微殿自身は嫌うけれど、花鬘の君は心から愛しそうにそれを撫でるのだ。
「わたくしのお話、聞いてくれる?少し長くなるけれど。」
「……えぇ、お姉さま。お聞きしたいです。」
左大臣家の大君として生れ、二つ下に妹がいた。生母は同じで、幼い頃からともに育ってきたので大君は妹をたいへん可愛がっていた。けれど、やはり左大臣家の姫君である。大君は、十八歳になる頃、同い年の時の帝・広之瀬帝へ入内することになった。
広之瀬帝にはすでに中宮がいた。先の東宮、つまり広之瀬帝の兄にあたる人の娘で常葉中宮という。
入内して麗景殿を与えられ、麗景殿女御、あるいは花鬘を飾るのを好むことから花鬘女御と呼ばれるようになった大君よりも年下の中宮は、 帝の深い寵愛を得ているらしかった。
十八歳というのは入内するには遅い年齢で、それはからだの弱い彼女には仕方のないことだったが、父の過剰なまでの期待で余計に不安になった。
「女御、先に話しておきたいことがあります。」
初めてまみえた広之瀬帝は、ぬばたまの漆黒の瞳と病的なまでの白い肌が印象的な、闇を深く纏ったような青年だった。
その彼が、初夜に言った。
「私は近い内に死にます。いえ、自ら命を断つ訳ではありません。病死でしょう。けれどそれは天命なのです。私には抗うことはできません。」
そこで彼は咳き込む。慌てて背を撫でようと手を伸ばしたが、片手でそれを制された。
「大丈夫。……こういうことなのです。私は必ずあなたを置いて先に逝きます。子を残して差し上げるとも約束できません。その、覚悟はありますか。」
初々しい新妻に、広之瀬帝は酷なことを言うのだ。
「…あります。」
花鬘の君は、広之瀬帝の気遣いが痛いほどわかった。彼女も小さい頃から、あまり長くは生きられないと言われていたから。だから、力強く頷いて見せるのだ。
「主上が仏のもとへ召されるまで、わたくしは傍におります。ですから、わたくしに一つお約束してください。」
「何、かな……?」
「あちらへ召されたら、わたくしを待っていて欲しいのです。わたくしもきっと、あまりあなたを待たせずにそちらへ行ってしまうと思うから……」
そう言うと広之瀬帝は目を丸くして、それから小さく笑った。
「そういえば……ずっと婚姻を先伸ばしのしていたのも、あなたのからだが弱いからでしたね。ずいぶん待たされたので、あちらへ行ってしまうところでした。」
「えっ、縁起でもないことを。でも……待っていてくださったのですね。」
「はい……」
少し、迷うように視線をさ迷わせて、広之瀬帝は躊躇いがちに花鬘の君を抱き寄せる。
「約束します。三途の川の淵で待っていますから、どうぞ急がず、ゆっくりおいでくださいね。これは私からのお願いです。」
「わかりました。出来るだけゆっくりと……あなたのもとへ参りますね。」
そっと広之瀬帝の背にまわされた腕には、あまり力が入っていない。広之瀬帝は花鬘の君に気づかれぬように、眉をひそめる。
自分も病弱で、同年代の男に比べればだいぶ細く華奢だと思っていた。しかし、女性である花鬘の君は、そんな自分よりももっと華奢で儚げで、うっかり力を込めれば壊れてしまうのではないかと広之瀬帝は痛ましく思った。同時に、自分にこのか弱い女性を守る力がないことを、ひどく悔しく思えた。
「きっと私のもとへ来なければ。あなたはもっと幸せに、長く生きられただろうに……」
その言葉は、広之瀬帝自身を縛る言霊のようでもあった。
もし、皇子として生まれなければ……と。
「いいえ。例え短くても、あなたに会えてよかった。」
花鬘の君は、そう言って、心からの笑みを広之瀬帝に捧げたのだ。
それから数年の後、常葉中宮が一の姫宮──五十鈴姫宮を出産する。広之瀬帝に似ず、とても元気な産声を上げた女の子だった。
広之瀬帝の体は徐々に力を失っていく。弟宮に譲位し、ようやく心も体も穏やかに過ごせるようになると、前よりもずいぶんと明るい表情をなさるようになったという。