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梅香

 

 梅が咲き始めた頃だった。誰よりも早く、春の訪れを感じたくて、梅の香を辿りながら中将は歩いていた。

 春日の大社(おおやしろ)へ詣でた帰りの参道を下る。他の参拝者たちも、梅の香りと春の暖かさに、浮き足立っているようだ。


「若君、足下に気をつけてください。危のうございます。」


 辺りを見渡しながら歩いているので、石畳の参道に気をつけない中将を心配したのか、為行が声をかけてきた。


「まぁ、そう言わずに。お前もたまには、雅というものを感じてごらんよ。」


 音をたてて扇を開き、中将は笑う。


「私が風流を理解出来ないのは昔からでございます。」


 むっとした様子で、為行が答えた。


「東風吹かば匂いおこせよ梅の花…」


 菅公の歌の上の句を、中将は口ずさむ。為行は下の句を答えようとするが、忘れてしまったのか、それとも覚えていないのか、答えることが出来ない。

 ははっと中将が笑ったとき、


「主なしとて春を忘るな」

 

 答えたのは、為行ではなかった。


「ん?」


 中将が振り返ると、市女笠(いちめがさ)をかぶり、紅梅の襲を壺折にした若い娘がいた。


「あってますでしょ?」


 と言って、娘が首を傾げる。肩からこぼれる黒髪が、さらりと動くのに思わず目がいった。


「あっているよ。……君も参拝してきたのかい?」


「えぇ、そう。そうしたら、危ない足取りで歩く人で前がつかえているんだもの。」


 市女笠から下がる垂れ衣を掲げて、娘は素顔を見せた。

 美人、ではないが、黒目がちの瞳、小さな唇に愛嬌のあるまだ年若い少女だった。にっこりと笑うと、さらの可愛らしい。


「それはすまなかったな。……ではお詫びにそこの茶屋で少しご馳走しようか。」


「まぁ、本当に?それでは遠慮なく。」


 娘が明るく返事をする。

 深窓の姫君にはない、無邪気さと明るさを好ましく思った。


「でた……中将の悪いくせ。」


「何か言ったかい、為行?」


「いいえ、何も。」


 為行は仏頂面でため息をついた。




 


 娘とは茶屋で別れて、その夜は先帝の弟にあたる中務卿宮なかつかさきょうのみや邸の宴に招かれた。管弦に造詣の深い中務郷宮が、各楽器を得意とする者たちを集めたのだ。中将は龍笛を得手としている。


 始めに承和楽を。

 主に笙が主旋律ではあるが、龍笛も雅な音で花を添える。柳花苑、春庭楽と続き何曲か合わせたあと、酒の宴となった。

 楽器を得手とする者に知り合いは少ない。中将は早々と酒席を離れて、母屋の端のほうの房に隠れて月を見上げていた。

 どこからか梅の香りがする。ふっと息をついた。

 ここでは宴の騒がしさも微かに聞こえる程度だ。中将を煩わせるものはなにもない。

 中将はたまに、こうしたしずけさを好んだ。


 そうして静寂に浸っていた中将の耳に、潜められた声が聞こえた。


「やっ……おやめ下さい。お戯れはっ!」


「いいじゃないかちょっとくらい。ねぇ、君だって何も経験がないなんて言わないよね?」


 男女の争う声だ。


「……煩いなぁ。」


 中将は隣の房の御簾を掲げた。

 着物を乱して男と手から逃れようとする女の上に、男が覆い被さっている。


「嫌がっているよね、その子。無粋だと、思わないかい?」


「なっ、左近衛中将!?これはっ……そのっ……失礼する!」


 その男は中将よりも身分の低い者だったようで、逃げるように房を出て行った。 


「なんだ、あっけない。……君、大丈夫?」


 蹲っている女性、恐らくはこの邸の女房に声をかける。


「はい。……中将さまには、お見苦しいところをお目にかけてしまい申し訳……」


 顔をあげた女房は、驚きのあまりか声を失った。中将も目を見張る。


「あ、昼間の……?」


 そう言うと、女房はぱっと表情を明るくした。


「まさか、中将さまだったなんて!」


 あの愛嬌のある笑みを浮かべながら、彼女は中将の袖をぎゅっと掴む。


「なんてこと。春日の神さまのお導きだわ……」


 うっとりとそう言う、純粋で無垢な少女らしい夢見がちな言葉に、中将は思わず笑ってしまう。


「そうかもしれないな。これは、神さまはなんとおっしゃっているだろうか。」


 中将がそう問うと、少女はさらに可愛らしい答えを返した。


「きっとこうね。これは運命の出会いよ、って!」











 八十葉帝は肩を揺らして笑っていた。


「面白い娘だな。可愛いではないか。」


「でしょう?一緒にいると飽きなくて、とても楽しいのですよ。」


「だろうな。」


 その後家族について聞くと、彼女は故・式部卿宮(ひょうぶきょうのみや)の一人娘で、父が亡くなったおり、異母兄の中務卿宮が引き取ったは良いが女房の仕事をさせていたのだという。

 彼女の母が残した邸が四条にあったので、彼女は今そこに住んでいた。


「まぁ、妻が何人もいるのは珍しいわけではない。だが、くれぐれも四の姫宮のことも頼んだぞ。あれは気位は高いが、寂しがり屋だ。」


「……わかっていますよ。」



 中将は、ことりと杯を置いた。


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