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白光

 大晦日に追儺(ついな)、年が明けて四方拝(しほうはい)や叙位、白馬(あおうま)の節会など諸々の行事が執り行われた。

 叙位ではそれほどの変化はなく、その位のなかで、正従や上下が動いたのみである。

 

 今日は睦月の十四日、踏歌の節会だった。

 昼に帝とともに舞踏を鑑賞し、酒も少々振る舞われた。その席のことである。


 ────綾雲更衣!


 ────綾雲さま!


 ころりと転がった酒杯。口元を抑えてうずくまった綾雲更衣。血相を変えて、綾雲更衣に駆け寄った八十葉帝。

 毒ではない。むしろ毒であったならどれほどよかっただろう。


 中宮は持っていた扇を床に叩きつけた。


「……中宮さま。」


「わたくしは……わたくしは今とても自分を浅ましく思います。」


 嫉妬で怒り狂うだけの女にはなりたくなかった。しかし、あの場ですぐにおめでとうといえるほど、中宮にも余裕はなかった。


 ────綾雲が身籠もった。


 夫の口から、他の妃が懐妊したなどと、聞きたくはなかった。






  *****





 それは数日前のこと。師走も始めに入り、宮中は忙しくなっていた。

 しかし、その忙しさの合間を縫って、八十葉帝は綾雲更衣のもとに渡っていた。


「まぁ、主上。ようこそおいでくださいました。」


 八十葉帝の姿を見るなり、綾雲はほわっと笑った。その優しい笑みに、八十葉帝はいつも癒やされる。

 日々忙しく過ぎて行く時間のなかで、綾雲のところへ来るときだけはゆっくりと過ごせるのだ。

 綾雲の膝を枕に寝転ぶ。

 綾雲が自分の衣で八十葉帝の身体を包むようにした。


「主上……少しばかり話があるのですが、よいですか?」


「どうした?改まって。」


 見上げるといつになく真剣な目をした彼女と目があった。


「実はわたし……子どもができたみたいなのです。」


 ──────っ。


 突然の言葉に、八十葉帝は頭の中が真っ白になった。


 考えて来なかったわけではなかった。綾雲だけでなく、他の妃も抱いている以上、いつか自分にも子どもが出来ることは分かっているつもりだった。────だが、想像できなかったのだ。親となった自分が。


「……。」


 何も言い返せない八十葉帝に何を思ったのか、綾雲は悲しげに目を伏せた。


「ごめんなさい…」


 なぜ謝るのか。何と言ってやれば良いのか。

 親とやる喜びを、親の愛を受けて育たなかった八十葉帝が、分かるはずもなかったのだ。


「綾雲……」


「はい。」


「…私は、子の慈しみ方がわからんのだ。」


「主上……?」


 身体を起こして、綾雲の腹をそっと撫でた。


「すまぬ……」


 袖をつかんでくる綾雲の手を振り払い、八十葉帝は雷鳴の壺を飛び出した。





  *****




 

 どうりで、ここ数日の八十葉帝の様子がおかしいわけだ。

 はぁ、と大きくため息をつく。暮れゆく夕闇が、我が身にまとわりつくように心の影を落としていく。


「なんだ、せっかく私が来たというのに、ずいぶんと機嫌が悪いな。」


 ふんっと鼻で笑って、八十葉帝は酒杯をあおった。

 中宮はつま弾いていた琴の手を止める。


「おわかりでしょう……?」


「嫌味か?」


 酒杯を、音を立てて乱暴に置く。それが中宮の気に触った。一から七の弦まで、勢いよくかき鳴らす。


「綾雲更衣が身籠もったそうで。おめでとうございます。」


 世間話のようにそう言って、また一つ琴をかき鳴らした。


「……心にもないことを。」


 ぼそりとつぶやいた八十葉帝は重たげに腰を上げて中宮に歩み寄る。

 中宮の隣に腰を下ろすと、自ら手を伸ばして弦をはじいた。


「そなたのことだ、一の皇子を生むのは自分だと思っていただろう?さぞ悔しかろうな。」


「まるで他人事のようでありますこと。」


「そうさな、あまり実感はない。己が父になるなどな……」


 その声がいくぶん自嘲を含んでいるように思えて、中宮は顔を上げた。

 感情を宿さぬ夫の顔がそこにある。


「子が、あなたのように愛されぬのではと心配しておいでですか?」


「…何を。」


 訝しむ八十葉帝に、中宮は微笑んだ。


「知らぬとお思いですか?わたくしは貴方の妻ですよ。」


 どうもお忘れのようですが、と付け加えるとようやく八十葉帝は苦い笑みを浮かべた。


「忘れてなどおらん。」


 そう言って後ろから中宮を抱きしめる。


「…更衣殿は、慈しみ深い方だとお見受け致しております。きっと、子は大切に育てられるでしょう。」


 ぎゅっと自分の肩に巻きつく八十葉帝の腕に、中宮はそっと触れた。

 八十葉帝の衣の袖は縹色。悲しみの涙の色。


「そうだな……」


 先々帝の皇子として生まれた八十葉帝は、当時の中宮を母をもっていたが、先々帝の皇子としては十三番目の皇子だった。

 中宮を母とするため、皇位から遠いわけではなかったが、同母兄が二人もいたので両親はそちらばかりを気にかけ、八十葉帝は寂しい幼少期を送ったという。


「……わたくしも、人でなしではございませぬゆえ。更衣腹に生まれる皇子がどのような扱いを受けるのか、気がかりでないわけではありません。」


 気位が高いとか、傲慢だとか言われる中宮だったが、彼女は決してものを知らぬわけでも、性格が悪いわけでもない。

 自分は帝の一の妃。一人の女である以上に、国母であるのだと理解している。


「けれど、それと悔しい気持ちは別ですわ。」


「…中宮?」


 後ろを振り返り、八十葉帝を静かに見つめた。


「一の皇子をとか、次期東宮をとか、そういう意味で子が欲しいわけではありません。わたくしは貴方の妻だから、貴方の子を欲しいと思うのです。…大切な貴方の子だから、欲しいのです。」


 わずかに色づいた頬を隠すために、中宮は八十葉帝から顔を背けた。


「……ですぎたことを申しましたわ。」


 そう言って離れようとした中宮の手を、八十葉帝は強くつかんで引き戻した。


「…やっ、おやめください。」


 振りほどけない中宮はか細い声を上げる。


「なぜ?」


 苦しげな声で問われ、中宮は抵抗を辞めて八十葉帝を見上げた。八十葉帝が眉間にしわに寄せて中宮を見ていた。


「……あなたは私の妃だ。」


「…っいや、やめっ……」


 八十葉帝が突然、噛みつくように唇を重ねた。


「ぁあっ、主上っ。」


 床に引き倒して、八十葉帝は急ぐように中宮の緋袴の紐を解く。


「愛など……愛など知らぬ。私に愛をくれた者などいなかった。」


「……主上、主上。」


 消えていなくなりそうな気配を纏う夫に、中宮は必死ですがりつく。


「…もし、もし我が子を愛せなかったら?私と同じ思いを子にさせてしまう。そんなことになったら、私は自分を許せない。」


 衣をはだけた中宮の胸元に、八十葉帝は顔を埋めた。中宮は夫の頭をかき抱く。


「……大丈夫、大丈夫でございますよ。」


 そう言いながら、中宮は思った。なぜ気付かないのだろうかと。八十葉帝を愛するものは大勢いるのに。わたくしもこんなに愛しているのになぜ気付かないふりをするのだろうか、と。








 

 ─────夜が明けゆく薄青の空に、白光の朝日が差し込み、かの宮の誕生を祝福するかのようであった。

 八十葉帝の第一子にて第一皇子は、初夏の美しい夜明けの刻に生まれた。この後、皇子は夜明宮(よあけのみや)と呼ばれることとなる。


 夏が終わる頃、八十葉帝の強い希望で、綾雲更衣は里より内裏へと戻った。


「……皇子でございましたか。」


 女房たちのこの言葉は、幾度聞いたことだろう。


「おやめなさい。そのような言い方をするものではありませんよ。」


 自らの心を痛めながら、中宮は言った。


「これから皇子誕生を祝っての宴なのですから。」


 そうたしなめると、女房は不服そうな顔をしながら下がった。

 皇子ではあっても、更衣腹では身分が低いため即位はできない。むしろ、更衣腹の皇子にようはないと、捨て置かれる、あるいは侮られ利用される可能性があるのだ。

 きっと、八十葉帝もそれを心配しているのだろう。中宮は、そっと己の腹に手を置いた。

 

「……なぜ。」


 なぜ、今なのだろう。


 八十葉帝のために、中宮として、綾雲更衣と夜明宮を守らなければと決意したばかりだったのに。


「……わたくしの……わたくしの子。」


 夜明宮と一つ違いで生まれる、わたくしと主上の子。


 あぁ。


 ─────運命とは、なんて憎らしい。



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