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第一章 再会

天災と出会いは忘れたころにやってくる。


小学時代の初恋の二人は、四年ぶりに再会します。あるうららかに晴れた日の午後のこと。

 ある4月の午後、市街地から郊外にのびる県道沿いには、暖かな日の光が燦々と降り注ぎ、見渡す限りあたり一帯を春の喜びに満たしていた。

 

 この県道の中ほどにぽつんと建っているお城のコンビニエンスストアは、白と青の高い塔が日の光をまばゆく反射し、周りの淡いパステルカラーの景色からくっきりと浮かび上がるように美しく映えていた。

 

 店長は三十半ばを過ぎていたが、見た目はずっと若々しい婦人だった。改めて夫人の顔を観察すると、白く滑らかな額には崇高を、バラ色の頬には親愛を、黒い輝きのある瞳には知性と慈愛を、そして、やわらかく結ばれた唇には優しさと意志が読み取れた。

 

 この日、婦人は店の外に出て、県道をずっと市街地の方に目をやっていた。遠くの路面には陽炎が立ち、透き通った湖面のようにゆらゆらたゆたっていた。その中に、点のような黒い染みが見えていて、揺れながらやがて少しずつ大きくなってくると、突然自動車やトラックが大きな姿を現して通り過ぎていくのだった。

 

 婦人は何かを待っていた。その何かはそろそろ現れる時間だった。すると、陽炎の中に小さな幾つもの黒い影が見えてきた。

「来たわ。いつもの時間だわ」婦人は店の中に入り、忙しくなる仕事の準備についた。

 

 次々と店に入ってきたのは、元気のいい高校生たちだった。これからしばらくは、腹をすかした高校生たちで店は賑わうのであった。


「お帰り、みんなお帰り。あら、どうしたの、ケンタ君。そんなに汗びっしょりかいて」夫人が男子高校生たちに驚いたように声をかける。

「こいつらがね、コンビにまで競争しようって言うからさ、学校の校門からすっ飛ばしてきたの。びりになったやつが、みんなにアイスをおごることになっているの。なあ、テツヤ!」


 一番後から店に入ってきた男子の首に手を回したり、背中を叩いたりして他の男子たちは笑った。しばらくすると、女子高生たちが笑顔いっぱいに入ってくる。


「あら、ナナちゃん長い髪どうした?」今度は、女子高生たちに夫人は声をかけた。

「失恋したんだって」いつもナナと一緒のサチが、うれしそうに夫人に告げる。

「いやだ、違うわよ。暖かくなったから、イメチェンしようとしたの。どう失敗かな? マリコ先生。正直に言ってよ、お世辞じゃなく」

「うん、似合うわ。前よりいいくらいよ。可愛いわよ」


 高校生たちは、食べ物やら、雑誌やらを買って、店の隣の「お城の休憩室」で一時賑やかに過ごして家路につくのだった。

 このみんなから「お城の休憩室」と呼ばれている部屋までは店の中からつながっていて、子供たちばかりでなく大人たちにも、だれでも自由に利用出来るよう、広々としたお洒落な部屋として、夫人が初めから設計したものだった。

 部屋には大きなガラス窓から明るい陽光が差し込み、つい立に区切られた数組の大きなテーブル席と絨毯敷きの広い座敷の間があった。小学生の遊び場として、中学生、高校生の部活やクラスや仲良しグループの寄り合い所として、さらには夫人連や男衆の集会所として、この「お城の休憩室」は昼となく、夜となく人が絶えたことはなかった。


 ところで、この町には、四つの高校があった。そしてこの町は、町を取り囲む周辺のもっと小さな町や村の中核的な存在であったから、多くの生徒たちがこの町の高校に通っていた。

 この町の高校は学力レベルが高く、優秀な生徒たちが集まっていた。通学に鉄道を利用する高校生も多かったが、そういう彼らはたいていずうっと遠方の町や村の生徒たちで、近在の高校生たちは自転車通学の生徒たちの方が多かった。

 男子高校生たちの中には、自転車で一時間やそれよりもっと長い時間をかけてこの町の高校に通っているものも少なくなかった。女子高校生たちは、雨の日は鉄道やバスを利用しながらも、晴れて気持の良い日には自転車を利用することが多かった。 


 夫人は町に通じている東西南北の四本の県道を調査した。自転車通学の一番多い県道を探り、そこを通過する高校生の数をほぼ正確につかんだ。この東行きの県道は通学生徒の最も多い県道だった。

 

 さらに、この東行きの県道沿いに町の人口は近年膨らみを見せていたのだった。町や工業団地で働く新しい住民が、町から離れた地価の安いこの県道沿いに家を建てていった。畑や農家の間に点在するミニ団地が少しずつ数を増やしていっていた。

 近くの小学校と中学校の生徒数もかなりの速さで増えていっていたことも、夫人は調査済みだった。学校が終わった頃、子供たちはお菓子や文房具やおもちゃを買いにやって来た。夫人は子供たちの買いそうな品物を充実させた。


 さらに、この県道にコンビニを出すことを決めたには、もう一つの調査があった。それは、新しくできた工業団地に通じている県道のうち、原材料や製品を運ぶトラックの最も通る道路がこの地点を通っていたからだった。

 町に向かう県道と工業団地に向かう県道が交差するこの十字路こそが夫人の望んでいた正に絶好の場所だったのだ。

 大型トラックがゆうゆうと駐車できる大きな駐車場を備えれば、きっと店に寄ってくれると目算した。

 町の小さな駐車場しか持たないどんな店でも、大型トラックは立ち寄れないはずだから、夫人の考えが正しければ、トラックは次々とこの店を利用してくれるはずだった。そして、その予想は正に的中した。

 「大型トラックの駐車場完備 お気軽にお寄り下さい」と書かれた大型看板に惹き付けられるように、トラックの運転手たちは店で弁当や飲料水やタバコを買い、その後周りへの気兼ねもなく広い駐車場に停めたトラックの運転席でゆっくりと食事をした。中には、そこで一寝入りしていく者もあった。

 トラックの運転手たちは、「お城の休憩所」を利用することはほとんどなかった。というのも、彼らはたいてい一匹狼でいることを好んでいて、他人と交わることを嫌っていたからだった。


「おれたちはよ、接客とか営業とか、とにかく人と顔を合わせたり話したりするのが好きじゃないんだよね。その点トラックの運ちゃんは楽さ。ただ荷物を積み込んで、決まった所へ運んでいけばいいんだからよ。車に乗ってしまえば、あとはずっと運転席で一人でいられるからね。寂しいことなんかちっともありゃしないさ。逆に、一人の方がどんだけ気楽でうれしいことか。ほんに、この世で人間関係ほど煩わしいことはないからな、そうじゃろ?」 こういう台詞を、亜部夫人はこれまで何度もトラックの運転手に聞かされてきたのだった。


 先陣の高校生たちから少し遅れて、新品の高級自転車が、陽炎の中からシルバーメタリックの車体を、キラキラと輝かせて現れてきた。

 下ろしたての新車はすこぶる調子がよく、滑るように道路を走っていった。タカシはゆっくり走らせた。こんな気持がいい日だから、長くこの自転車を走らせていたかった。

 彼は次々と先を急ぐ自転車に追い越されるままにしていた。知り合いの生徒たちは追い越しざまに声をかけていった。彼も手を振って応えた。

 追い越していくとき、彼の目は自転車に注がれた。キイキイ音を立てていくもの、タイヤが歪んでくねくねしているもの、タイヤのゴムが危険水域まで磨り減っているもの、チェーンが緩んで今にも外れそうなもの。

 しかし、だれ一人そんなことを気に掛けちゃいなそうだ。自転車の調子は後ろから見ればよく分る。

 だが、誰も自分の自転車の後ろ姿なんか知らないのだ。自分の自転車が誰よりも調子がよく、音一つ出さないことを思って、彼はそっと微笑んだ。



 眩しい春霞の中では、去年と同じ場所の上空で、恐らく去年と同じヒバリが楽しそうに歌っていた。

 道端には、ハコベとハルジオンが競い合って茎を伸ばしていて、タンポポの群生からは、白い綿毛がふわふわと飛んでいた。畑一面に広がる黄色い菜の花のかぐわしい匂いが漂ってきた。あちこちの畑では、小型のトラクターが忙しく動き回っている。

 ありふれた毎年の、再びめぐってきた春の光景、何もかもがただ素直な喜びに満ちた世界。いつもの見慣れた、聞き慣れた調和の旋律が甘く優しく奏でられている世界は、だれにとっても頬を撫でていくそよ風のように心地良いものだった。


 しかし、その協和音の世界にひとたび見慣れない異物が、あるいは聞き慣れない不協和音が混入してくると、あたりは一瞬に薄暗い影が忍び寄り、輝きの日の光も色あせていくのだった。


 彼の横をすうっとマリンブルーのセーラー服が追い越していった。彼は甘い香りを嗅いだ。追い越していくとき、風に吹かれた黒髪が頭の後ろになびき、前を見つめた白い横顔が彼の視界に入った。

 その瞬間、彼の全身をピカピカッと稲妻が走り抜けていった。鳥肌が立つ思いで、そのときからまさに彼の世界が一変した。

 彼を取り巻いていた、見慣れた気持の良いのどかな世界が、その中へのたった一人の少女の出現によって、まったく違った世界に変化したことを、彼はすぐに感知した。だれかにふいに後ろから青いサングラスをかけられたように、暖かな金色に輝いていた周りの景色が、突然冷涼なブルーに塗り変わった。


 確かに少女の顔に見覚えがあった。ふわふわと風に膨らんだスカートから白い太腿の裏側を見せながら、女子高生の自転車は遠ざかっていった。もう何年も見てはいなかったが、その顔に違いなかった。

 ハンドルのスロットルを回すと、コトコトッと小さな音を立ててギヤがチェンジされ、彼の自転車は軽々と加速した。そして、彼が前の女子高生の自転車に追いついて並んだとき、ためらいがちに呼びかけた。


「もしかして、マリ……桜木さん?……」

「えっ?」驚いた表情で彼の方を見た女子高校生は、「あっ」と絶句して言葉に詰まった。

 彼女は顔を前に向け直し、硬い表情のまま走りつづけたが、顔が赤く染まった。

 やっぱりそうだ、桜木マリだ!あの頃の小さな女の子ではなかったが、目や唇や白い頬は昔の面影を残していた。反応の様子から、彼女も彼のことが分ったようだ。

 二人にとって、四年ぶりの再会だった。何の準備もなく突然に訪れたこの再会は、彼にとってはただただ青天の霹靂といえるほどの驚きだった。

 胸が激しく動悸を打ち、頭が混乱して次の言葉がなかなか出てこなかった。それに、マリは黙ったままだったから、どんな言葉を掛けたらよいものかますます分らなくなってしまった。

 幸いにして、二人は例のコンビニの前にさしかかったので、彼は思い切ってもう一度大きな声で話しかけた。

 

「ちょっと待って、ここで待っていて、アイスを買って来るから」桜木マリが止まってくれたことを確認してから、彼は急いで店に行った。


「あら、タカシ君、お帰り。どう、新車の乗り心地は?」亜部夫人がレジの中からにこやかに声をかけた。

「うん、最高」と、大空タカシはいつもと違ったつれない返事をし、アイスをそっと二つレジに持っていった。

 感の鋭い亜部夫人は彼の顔をじっと見て、怪しげににっこりしたのだった。

「あら、どうしてアイスを二個なの? いつも一個しか買ったことないのに、誰かお友達でも一緒なの?」こう言って、夫人は外の方を、入り口のガラス戸越しに頭を動かしながら眺め、目ざとく県道に立っている女子高校生を見つけてしまった。


「あら。あらあら、そうだったの。ふうん、やるじゃない」亜部夫人は驚いた風に目を丸くして見せたが、何か思わしげな表情でタカシを見つめた。


「違うっていうの。そういうんじゃないんだって、マリコおばさん。もういいや、説明するの面倒だから」彼はアイスの入ったポリ袋を持って店の外に駆けて行ってしまった。


 亜部夫人と大空タカシがこういった馴れ馴れしい言葉を交わすのは、二人が親類関係にあって、つまり、亜部夫人はタカシの母の妹にあたるからだった。

 タカシが出て行った後、亜部夫人はドアの所に行って二人を眺めた。先ほど、タカシがあたふたした様子を見せ、顔を赤らめたのを見てとって、婦人の胸中に一抹の不安がよぎったのだった。


「ただのお友達だったらいいんだけど。なかなか可愛いじゃない。あら、あの子どこかで見たような覚えがあるわね。ええーと、誰だったかしら?」夫人の心臓が一つ大きく脈打った。

 ドアから離れた後も、その女子高生の顔を思い出そうと努めたが、思い出せなかった。しかし、確かに見覚えのある顔だった――   


 マリの所に行ったタカシは、夫人が二人を見ているとは露とも知らなかった。ましてや、夫人が女子高校生の顔に関心を持ったことなどは思いもよらないことだった。

 タカシはゆっくり自転車を走らせ、マリはその後をついていき、県道からそれて、コンビニの少し先にある大きな神社の境内に通じる太い参道に入っていった。

 入り口の参道をまたいでいる大きな赤い鳥居をくぐっていくと、両側はかなりの樹齢と思われる太い杉並木が続いていて、参道を薄暗くしていた。

 二人は自転車を降り、参道からはずれて杉並木の間を通りぬけ、小高い土手に出た。

 

 目の前には幅の広い川が流れていて、二人の少し上流に堰が見えた。堰の上流では満々と水をたたえ、両岸から伸びた大きな枝が水面に緑の影を落としていた。

 堰から滝のように白い水が落ちていて、その下流の川床は乾いた丸い玉砂利に覆われていた。その丸い石の間を幾筋もの水が流れ、所々に白波を立てていた。二人は自転車を止めて、そこにあった木造りのベンチに並んで腰をかけた。


「食べて」とタカシはマリにアイスを渡し、「ありがとう」とマリはささやくような声で受け取った。滝の落ちる音が小さく聞こえてくる以外は、静寂が二人を包んだ。


「あの……、帰って来ていたの知らなかったな。いつ帰ってきたのさ?」彼はどぎまぎしながら、やっと言葉を吐き出した。

「この四月の初めに来たばかりよ」彼女は彼を見ないで話した。


 彼女の制服から、彼女が通っている高校はM女子高だということはすぐ分った。この町には、M男子高とM女子高と農業高校と工業高校の四つの高校があった。タカシは工業高校のニ年生だった。


「また、お母さんと戻ってきたの?」

「ええ、そうよ。私はもう東京には飽き飽きしたわ」


「君が東京に行ってしまってから、――小六の卒業式の翌日から――もう四年も経っているね。あの頃の君の顔を思い出せないくらいだ。今日君を見たとき、思い出したよ。

 でも、今の君は、もうあの頃の小さな女の子ではないんだね。何だか、別の人みたいだ。あの頃の君はお喋りで、読んだ本のことや好きな音楽のことや絵のことを僕にいっぱい話してくれたね……」


 こんな表面的の話しではなく、彼が本当に彼女に問い質したかったのは、どうしてあのとき、彼に何の別れの言葉もなく東京に行ってしまったのかということだった。

 あのときに彼が受けた衝撃と悲しみは、彼をあまりにも強く打ち据えたので、そこから立ち直るまでにどんなに苦しんだことか。

 彼が再び笑顔を取り戻すまでには長い歳月が必要だったのだ。もちろん、彼はだれにもこの悲しみを打ち明けることなく、一人でじっと耐え忍んだのだった。

 純真で柔らかな心に刻まれた赤い傷跡は、少しずつ癒えていき、もうずきずきと痛むこともなくなった。

 中学に入って、彼は部活に熱中して過去を忘れようとした。そして、いつか忘れていった。それでも、彼女が彼の前から消えていった理由は、どうしても知りたいことだった。


「あなただって、もうあの頃の小さな男の子ではないわ。四年間のうちに、私たちは大人になってしまったのよ。いつまでも子供でいられないのね」彼女は悲しそうな顔で言った。


 あの頃の彼女は、まだ手足は細くて背も小さかった。それが、目の前にいるその女子高校生は、もう大人の女性のように背も高くふくよかな体つきに成長していた。

 あの少女の名残は、水晶のように澄んだ大きな二重の目や、くっきりと形の良い唇や、透けるような白い頬に残っていた。彼女が全体として醸し出す、都会的で気品のあるエキゾチックな雰囲気は、あの頃と同じだった。

 

 あの頃の彼女はいつもセンスの良いお洒落な服装をしていたから、ここの素朴で牧歌的な田園風景よりは、どこかヨーロッパの古い街並みの方が似合っているように感じていた。

 

 あのときから二人は遠くに行ってしまったのだろうか。あの頃の二人と今の二人はもう違った人なのだろうか。

 あの頃、二人は小さな恋人同士だった。タカシはマリを好きでたまらなかった。あのときのときめきは、まだ思い出として胸の中に残っている。マリだってそうに違いないと思った。

 

 しかし、今はもう、二人はあの頃の子供ではない。だから二人はもう恋人同士ではないのだ。あの恋は四年前にぷつんと終わってしまって、宙ぶらりんのまま行き場を失っている。遠い思い出の中に……。

 では、二人の恋は完全に終わってしまったのか。それとも、まだ、終わっていないのか。タカシには分らなかった。でも確かなことは、四年前に戻って続きをやり直すことはできないということだった。


「あの、ちょっと自転車見せてくれる?」彼は立ち上がりながら、話題を変えた。マリの自転車の所へ行って、あちこちを点検した。


「チェーンが緩んでいるね。このままだと外れやすいから、締めておいた方がいいね。それと、ブレーキの効きが悪いね。もうパッドが古くなっていてこれは交換した方がいいね。町のほら小学生のときによく行った僕のおじさんの自転車屋さん、覚えている? あそこで学校帰り月、水、金とバイトをしているんだけど、来てくれたら直してあげるよ。古い自転車から取った部品がいっぱいあるから金はかからないよ」


 マリは悲しげに下を向いたまま黙っていたが、時々顔を上げて前方の川原を目を細めて眺めた。白い頬は紅潮していた。

 このとき、彼女が必死になって涙をこらえていたことに彼は気づかなかった。彼女の胸中には、幾つもの熱い思いが怒涛のように逆巻いていたのだった。これらの彼に対する懺悔や希望のたぎる心情を、いつか彼にすべてぶつけなければならないと考えていたのだった。

 二人は、県道に戻り途中で分かれていった。彼女の家はタカシの家からそれほど遠くはなかった。彼女は母方の祖母の家に住んでいたのだった。



「お帰り、タカシ兄ちゃん。あのね、自転車が調子悪いのよ。ちょっと見てくんない?」

 彼がさっそく修理に取りかかると、側でその様子を見ていたミコが大きく溜息をついた。ミコは先ほどの亜部夫人の娘で、訳あって今は、婦人と共に

タカシの家に居候している。


「私もうかなり大きくなっていると思うんだけど。身長だってアキ姉さんにもう少しで追いつくわ。それなのに、こんなちっちゃな子供用自転車しか乗せてもらえないんだもの。

 お母さんはもうすぐ中学生になるんだから、そのとき大人の自転車を買ってあげるからもう少し待っていてっていうんだけど。

 それにこの自転車だってもうぼろぼろじゃない。小さいから、ぜんぜんスピードが出ないし、お母さんはその方が危なくないからいいのよって言うけど、友達はみんなギア付きの大人用自転車に乗っているのに、私だけギアなしの子供用自転車じゃなんか恥かしいわ。

 私よりちびの男子たちでさえ大人の自転車に乗っていて、それに私の自転車をひどくからかうのよ。おまえのおじさん自転車屋なのに、そんなおんぼろに乗っていやがんのって。もう、追っかけていって教科書で頭叩いてやったわよ。

 最近じゃしょっちゅう追いかけっこばかりやっているわ」再びミコは大きな溜息をついた。


「確かに、ミコにはこの自転車小さすぎるな。今度イチローおじさんに相談してあげよう」


「わーい、やったー。私だってけっこう家のお手伝いをやっているんだから、新しい自転車に乗る権利があるはずよ。

 私アキ姉さんみたいにお洒落に凝ったり、見栄っ張りでもないけど、もっとスピードを出して颯爽と乗ってみたいのよ。子供用自転車だと、なんかよたよたしているみたいでかっこ悪いわ。

 自転車に乗るということは、単にどこかへ行くための便利な道具というだけじゃなくて、かっこよく気持ちよく乗るというファッションの要素も含まれなくては意味がないと思うわ。ちょうど、着物が寒さを防ぐためにだけ着るのではなく、着ていることで幸福で気持ちよくなるために着るのと同じことよ。そうじゃない? タカシ兄さん。できたらタカシ兄さんのみたいに、ギア付きのにしてくれたらうれしいんだけど。ママチャリなんて嫌よ。イチローおじさんにそのことちゃーんと伝えてよね。

 ――タカシ兄さん、なんか元気ないわね。分った、ミホさんと喧嘩でもしたんでしょ」ミコは笑いながら、犬のピーターパンと散歩に行ってしまった。


 ミコの後ろ姿を見送りながら、ミコももう六年生になったんだな、としみじみ思った。タカシが六年生の頃は、ガールフレンドに夢中になっていたことを思い出していた。まだ幼くて世界がキラキラと輝いていた夢のような時間の中にいたことを――    



 タカシは着替えてから、家の横にある工場に行った。彼の大好きな香ばしい油の焼けた匂いが漂ってくるのを、タカシはうれしそうに胸に吸い込んだ。 


「お帰りなさい、タカシ君」仕事を終えて帰っていくパートのおばさんたちが次々とタカシに声をかけていく。


「お帰り」母が遠くで笑顔を見せる。

父が始めたこの小さな餃子工場は、最近の健康ブームや中華食ブームのおかげでフル稼動している。

 タカシもイチローおじさんの所での週三日のバイトの日以外は、よく工場の手伝いをしている。餃子は彼の大好物だった。

 彼が中学二年のとき、父がいきなり家の隣の畑を潰して餃子工場を建て、家族をびっくりさせた。父はいつでも家族に相談なしに何かを始め、家族の驚きや心配を大声で笑いとばすのだった。


「幾ら食ってもいいぞ。なあタカシ、食いたいだけ食え」創業当時、父にそう言われて、タカシは毎日百個以上は平らげて家族の皆に笑われた。


「幾らなんでも食べ過ぎよ、兄さん。それに、夕食だったらまだいいけど、朝ご飯にも食べて学校に行くのはやめて欲しいな。

 お兄さんのクラスの高橋コノミさんの妹のミユキに言われたけど、お兄さんが教室でニンニクくさい息で話し掛けてくるからいやだってコノミさんが家で話していたそうよ」やさしい兄思いの妹スミレにこう言われてからは、さすがに朝は自粛した。

 タカシは、出来上がった製品の箱をトラックに積む仕事を手伝った。背が高く、中学時代陸上部で鍛えたがっしりした体格の彼は、母のミチコから見ても頼もしい青年だった。彼が気さくで明るい性格だったから、パートのおばさんたちにも大人気で、いつもからかわれていた。


「タカシ君をうちの娘のお婿さんにしたいわ、どう?」

「うちの娘はタカシくんのこと、学校の女子に人気があるって話していたわよ。よくタカシ君の話が出るから、それであんたはどうなのって訊いたら、顔を赤くして部屋へ逃げていったわ」



 金曜日の午後、学校が終わるとタカシは細川自転車店に直行した。その日は学校でのいろいろな話し合いで、いつもより遅れてしまった。


「ただいま、イチローおじさん。おお、随分お客さんがいますね」


「お帰り。お客がタカシの来るのを待っているよ。

 タカシでなくちゃ、おれには分らんからな」と言ってうれしそうにイチローおじさんは笑った。奥のテーブル席に馴染みの常連客が集まっていた。


「そうよ、タカシ君でなくっちゃ、最近のスポーツサイクリング車のことは分らないよな。待っていたんだよ。明日レースに出るからよ、最高の調子にしておかなくちゃね」

 山崎食堂の長男坊のミチオさんは、短く刈った坊主頭が似合う背の高い青年で、丸顔にいつも笑顔を絶やしたことがなかった。レース中でも一人笑っていて、他の選手たちに不気味に恐れられていた。


 このところ、健康志向の町の勤め人たちの間で、自転車がブームになっていて、若者ばかりでなく、中高年の人たちもこの店を訪れるようになった。 彼らは、普通の自転車ではなく、もっと高級な競技用自転車を買い求めた。ゴルフに凝っている人がより良いクラブを手に入れたがるように、自転車を趣味とするようになったサラリーマンたちも、自転車に大枚をはたいてブランド物の自転車を手に入れようとした。


 イチローおじさんは、頭の柔らかいタカシにこの最新のスポーツサイクリング車の担当を任せたのだった。タカシはその期待に見事に応え、すぐ専門知識をマスターしてしまった。店にはそれらの専門雑誌が幾つも置かれ、お客たちはちょくちょく立ち寄っては、雑誌を読んだり、タカシに相談したりした。


 とくに、新しい町民たちの強い要望に応えて、市がマウンテンバイク専用のレース場を町のはずれにある東山に造ってから、細川自転車店は小さな子供から年配の大人まで、多くのお客が訪れるようになった。町にはそれらの専門店は他になかったからだった。

 この自転車店は、イチローおじさんが一代で始めた店だった。店構えも昔ながらの古びたものだったが、温もりのある店の雰囲気と、イチローおじさんの温かい人柄がなじみの客を多く惹きつけていて、以前からけっこう繁盛していた。

 

「明日のレース、頑張るからよ。タカシくんまた来てくれるんでしょ。頼りにしていまっせ」

 こう言って笑ったのは、趣味が高じて毎月一回行なわれるレースに熱中している、鈴木床屋の跡取息子ユウジさんだ。紺屋の白袴じゃないけれど、ユウジさんの頭は、もう何ヶ月もカットしてないんじゃないかと思われるほど髪ぼさぼさで、それをお洒落なへアーバンドで押さえつけていた。


「おうよ、おれも明日出るからね。タカシ君チューニング頼んだよ。おれたち仲間で合計五人だからな。タイヤの手配お願いだよ。この間なんか木にぶつかって二本ともパンクしちまったからな」と頭をかいたのは、筋肉隆々の雑貨屋の三十五歳になる石黒ジュンさんだ。彼は仕事をほっぽりだして駆けつけたのだった。


 春から秋にかけて毎月行なわれるレースは、彼らにとって今では良い健康法になっているばかりか、夢中になれる生き甲斐にさえなっていて、多くの仲間との和気あいあいの交流に大いに役立っていた。

 細川自転車店の一角は、いつの間にか彼らの寄り合いの場にもなっていて、特にレース前には、部品の交換や調整のために、大勢店に押しかけてきて賑わうのだった。

 そして月末のレース日には、タカシは彼らの車に乗っていって、市所有の山に造られたレース場に出かけ、激しいレースで次々に壊れて持ち込まれる自転車を、素早く直す係りを仰せつかっていた。



「ミコが新しい自転車を欲しがっているね。今のはミコに小さすぎるようだし」

 お客が準備を終えて店を出て行ってしまうと、タカシはイチローおじさんに話しかけた。


「んだなあ、もう潮時だな。どんなのがいいか、タカシが見繕ってくれ」


 タカシは店に並んでいる自転車の中から、ギヤ付きの男子が欲しがるようなスポーツタイプで、タカシと色違いのローズピンクメタリックの自転車を選んだ。


「おお、やたらかっこいいのを選んだな。よし、さっそく明日にでも持っていって驚かしてやろう。ミコのやつこの頃背が伸びたからこの新しい自転車がよく似合うぞ」


「うん、きっとかっこいいね。それとイチローおじさん、中古自転車もけっこう修理したから、もうそろそろアフリカに送ってもいいんじゃない? マリコおばさんに言っとくね」

 

「んだなあ、たの……あっ、いらっしゃい」


 イチローおじさんの言葉に、タカシが顔を上げて店の入り口の方を見ると、桜木マリが自転車のハンドルを握ったまま、入り口の所で立っていた。


「こんにちは」とマリがタカシの方を見ながら挨拶したので、イチローおじさんはただ黙って頭を下げただけだった。


「やあ、来てくれたんだね」タカシは立ち上がってマリの方にいき、彼女の自転車を店の中に引っ張ってきた。イチローおじさんは仕事をしながら、横目で二人の様子を窺っていた。


「どう、思い出した? あの頃、自転車を直しによくこの店に来たよね。あの頃より店を広げたんだよ」タカシは横の方に新しく広げた、真新しいスポーツ自転車が並んでいるコーナーを、うれしそうに眺めた。


「ああ、懐かしいわ。よく覚えているわ。あの長い柱時計も、あそこの青いソファーも、そうそうあの陶器のシャム猫も。

 あら、壁のほらあの頃人気のタレントのポスターも昔のままだわ。この店の油の匂いも思い出したわ。そうおじさんのことも。確か、えーと、イチローおじさんでしたわね」マリが奥の方に顔を向け頭を下げた。


「えっ、そういうと、あんたは、いや、確かに見覚えがあるぞ。ちょっと待った、何も言うなよ。今思い出すからな。ええと、よくタカシと一緒に来たことがあったよな。ほら、新しい自転車も買ってくれた。そうそう、マリだ。な、そうだろ、いや、大きくなったなあ。あの頃はまだ背が低かったし、痩せっぽちだったし」

 

 マリがもうあの頃のちっちゃな少女ではなくて、大人びた落ち着きのある美しい女性になっているの見て、イチローおじさんは目をぱちぱちさせて驚いた様子を見せた。

 それから、急に思い出したように、「おれ、今からお客の所へ自転車を届けに行って来るからな」と言って、軽トラックで出かけてしまった。イチローおじさんも若い二人に気を使ったのだった。

 ただ、車を運転しながら、マリがどうして今ごろ姿を現したのか不思議に思っていた。


「それにしても、あのちっちゃなマリがあんなにきれいな女になっているとは信じられなかったな。いや、小学校の頃も可愛いには違いなかったがよ。目がくりくりっとして、よくしゃべる子だったな。あの子ほどいろいろなことを話して聞かせる子はなかったな。ほんに楽しい子だった。それが、小学校を終えると急に東京に行ってしまったんだからな。何にも告げずにさ。タカシがどんなにがっかりしていたか。しばらくは笑顔が消えてしまったほどだからさ」


 イチローおじさんは、二人の小学時代のことをよく知っていたから、彼女の急な出現に驚きと同時に、不安な予感を抱いたのだった。


「これ飲んで少し待っていて、すぐ直してしまうから」店の前にある自動販売機からオレンジジュースの缶を買ってきて、マリを奥のテーブルに招いた。彼は急いで修理に取かった。


「あの頃も、私の自転車を直してくれたわね。タカシ君が小さい手で、私のパンクしたタイヤを必死になって直している姿をまだ覚えているわ」こう言って、マリは小さな声で笑った。この前より明るい顔をしているのでタカシの緊張も軽くなった。


「あの頃とそっくりね。自転車をいじっている姿が。でも、そんな自転車屋さんの制服を着ていると、もう一人前の大人の人みたい」   


 彼女はまわりの壁の写真や、並んだ自転車を眺めながら懐かしそうに静かに話した。彼女は彼のことを、あの頃はタカシと呼捨てにしていたが、今はタカシ君と言っていることに、妙な違和感を覚えながらも、そこには長い月日の経過を彼は感じ取っていた。

 二人の間によそよそしい雰囲気が、目には見えないわだかまりが、深い谷のように横たわっていることを感じていた。タカシは心の中で、まだ彼女を許していなかったのだ。そのことは、彼女も十分に知っているはずだった。 

 彼は慎重に彼女の出方を見守っていた。彼女がどのような気持でいるのかを知りたかった。しかし、このことは、彼女の方から言い出すのが筋なはずだと彼は考えていたから、ただ成り行きを見守ることにしていた。


「よしできた。これでしばらくは調子いいよ」最後の仕上げに、チェーンに錆止めスプレーを吹きかけながらタカシが立ち上がった。


「ありがとう」と言って、マリはしばらく下を向いていた。それから顔を上げて、真剣な眼差しで彼を見つめた。


「分っているわ。あなたの言いたいこと。そうね、そうだわ。避けて通れないことだわ。

 でも、簡単に説明できることではないのよ。私を恨んでいるのね。もう私を許してくれないのね。

 いいわ、私が悪いんですもの、当然よね。本当はこちらに戻って来なきゃよかったかなって思っていたの。あなたにあの道で出会うまで。今日も、迷ったわ。

 でも、あなたが私を拒んでいないことが分ったから、行ってみようと思ったの。来てよかったわ。あの頃のことがまた蘇って……」

 

 彼女の目から大粒の涙が溢れてきた。カバンの中からハンカチを取り出して目を拭きながら、彼女は笑った。


「――忘れられないわ。私、忘れたくないわ、大切なあの頃を。さよなら、帰るわ。ありがとう。今日はもうこれ以上話せないわ」



 桜木マリが自転車に乗って遠ざかる姿を、タカシは通りに立って見送っていた。そのセーラー服の後ろ姿に、かつて彼女が小さかった頃の姿が重なって彼に映った。

 それは、遠い昔、彼女がタカシの家に遊びに来て、夕方自転車に乗って家に帰る彼女の可愛らしい小さな姿だった。

 もうとっくに忘れていたはずの、いや忘れることに努めていたはずの、過ぎ去った麗しくも悲愴な情景だった。


「ああ、忘れられない!」マリの姿が見えなくなるまで立っていたが、彼女の姿が視界から消えると、彼は小さく囁いた。

 店の中に戻って、タカシは先ほどまで目の前にいた彼女の顔を、姿を、思い出していた。まぼろしではない本物の桜木マリが、彼の前で話をしていたことを、彼はまだ夢のように呆然として思い出していた。





































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