現実乖離
実を言うと僕は僕ではない。
なんて言っても信じてくれないのが関の山なのだけれど、それでも僕は君に伝えなければならない。
僕は戸籍上蒲生貞士という名前を与えられてはいるが、しかし本人ではない。本人――というか本体は十年前に既に死んでいる。
忠告しておくがこれは、『高温で熱せられた僕が融解した液状のものを地面に群がる無数の水たまりとして発生した酸性雨とごく少量ずつ互換していくと、いつの間にやら僕が水たまりの群体に、水たまりが僕自身に成り代わっていた』とかそういう事情ではないのだ。
砂山のパラドックスが発生する余地さえもない。沼男とかいう思考実験とも関係ない。
もっと根源的なところに問題があるのだ――
「それは芋虫が脱皮をし、やがては蛹となり、完全体と化すのに似ている……。君は、人間ではあるが、人間ではないんだよ」
「……あなた誰です?」
気づけば初老の男が眼前に立ちはだかっていた。脈絡もなく話しかけてきた彼に、僕は無愛想に答える。
「続柄で言えば、君の父親だ――というのは、実は私にもよく分からないのだがね」
数瞬遅れて言葉を吟味するが、しかして彼の発言がどれだけ現実性の低いことなのか、すぐさま思い知る。
僕の父は母と離婚してから音信不通で、今の今まで接触はなかったといっていい。且つその時は僕がまだ赤ん坊の頃で、そんな自らの妻と息子を捨てるような人間が今更僕の前に現れるとは到底思えない。
とはいえ、母の方も相当な異常者だったので、否……だからこそ父は僕たち親子を捨てたのかもしれない。
――いいや、それも違う。父は――逃げたのだ。
僕の両足を断切するような、頭のおかしい母を恐れて――
「成程……じゃあ、一つ聞きたいんですけれど」
「聞きたいことは何でも聞けばいい。それに答えるのは父親としての義務だからな」
「あなたは何故あの時、僕を引き取らなかったんですか」
まだ僕が物心ついていない頃だったらしい。母は、彼女は、僕の足を膝下から切り落としたのだ。そんな彼女が僕を引き取りたいと思わなかったのは至極当然の結果だった。さもなければ、どれだけ彼女はちぐはぐで壊れているというのだろう。
「何故僕たちから逃げたんですか……それが未だに分からない」
「分からないわけではないだろう」
「そりゃあこんな歳にもなればそういう邪な心情も理解不能できるでしょうよ。でも問題はそこじゃないでしょう? 大事なのは気持ちではなくて行動だ。結果としてあなたは僕を捨てたのだから」
「たとえ行動に感情が伴っていなかったとしても、か……? それは欺瞞というものだ、自分に対しての」
「欺瞞なんかじゃありません、ただの自己暗示ですよ」
どうせ、母の血が流れている僕――蒲生貞士もまた、気の触れている異常者……になるであろうと、父は見限ったに違いない。
彼は恐れたのだ。未知の可能性に、不可解な存在に。
「それでもいいんじゃあないんですか……? 一緒に暮らしてくれる人がいれば、心を支えてくれる人がいれば、少しは救われるじゃぁないですか」
僕は独りだ。孤独だ。だからといって孤高というわけでもなく、糊口を凌げずに死にそうになった時もある……否、既に4回も死んでいたのか。
「まぁ、そんな過去の話をしても始まらないだろう。もっと建設的な対話をしよう、貴重な邂逅なのだからな」
そう言って、彼はズボンのポケットから何かを取り出した。
「これが何か分かるか。分からないだろうな。そう……これは、君の『死』を止める薬だ。といっても、目薬だがな」
そんな凄まじい薬を何故もっと大切に扱わないのかという疑問が即座に湧くが、しかし口に出すのは憚った。そのくらいは彼だって承知していることだろう。
「『死』を止める……? 一体何を言ってるんですか……それはつまり、僕の時間を止めるということに他ならないのじゃ……」
「いや、この目薬をさせば、君はその無間地獄の如き螺旋からも解放されるだろう」
「……たったの一滴でですか?」
「当たり前だ。一滴で君は限界まで生きることが可能となる」
――本当だろうか。僕にはとても信じられない情報だ。限界まで、つまり臨終まで、夢を見続けられるなんて。
だとしたら、逆にそれは、絶対にやってはならないことなのではないか……?
しかし体は僕の意に反して、目薬をさそうとする……金縛りにも似た、奇妙な拘束感……。
気がつくと眼球には、目薬が――瞳孔をえぐりながら、刺さっていた。
意識が戻ると、そこは軽自動車の中だった。
僕は助手席にいて、隣の運転席には、彼女(というのは勿論交際相手という意味である)がいた。景色の変わる速度からして、どうやら高速を走っているらしい。
「また、夢見てたんだね」
彼女――飛鳥のみなは言う。
「…………あぁ、そうだね。僕はまた、夢を見てたみたいだ」
「……」
しばらくの沈黙。その空白を費やし僕は自分の身に起こったことを察する。
「……なるほどね、僕はやっぱり永遠に夢を見続けるわけだ……」
『蒲生貞士』という人間には、だから永劫に現実など訪れないのかもしれない。現実だと思っていたものは結局夢の中の喜劇あるいは悲劇だった、という、救いのない夢落ちが延々と続いていくだけで、終わりのない『死』が己に内包されていくだけで……故に信じるべきものは、今しかないのである。
邯鄲の枕。
胡蝶の夢。
それはきっとこの先もそうなのだ。
……だとすれば、夢から現実に帰還した時にはやはり事実確認をしなければならない。
「僕の両親は離散したの?」
「そうね」
「僕の父親は僕を置いて逃げた?」
「そうね」
「僕の母親は僕の両足を切断した?」
「……そうね」
「僕は――蒲生貞士だよね?」
「ふふっ……私は飛鳥のみなでしょ? だったら、あなたの位置は蒲生貞士しかいないでしょうよ。それ以外には、あり得ないわよ」
彼女は優しくそう答えてくれた。
全く全く……困った性質を持ってしまったもんだ。
果たしてこの5人目の自分は、現実で何を見るのやら――