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羊の短編集。

雪兎のかなしい世界。

作者: シュレディンガーの羊


生まれて、すぐ息絶えた。

真っ白な世界にとけて消えた。

流れた哀しみもすぐに凍るような。

凍てついた世界。

そんな世界に生まれたから。




世界は真っ白だった。

上も下もわからないほどに。

だから自分が雪原に寝転んでいるのは、しょうがないことだと少年は思っていた。

はらはらと、頬に当たるは雪は恐ろしかった。けれど、どうしていいかわからなかった。

自分が何を望まれているのか。少年はよくわからなかったから。

「何やってるの!?」

不意に白い静寂に飛び込んだ声。仰向けのまま目だけをそちらに向ける。

横倒しの視界には一人の少女。赤いコートを着た彼女はこちらに慌てたように走り寄ってくる。

「お腹すいてるの!? 歩けないの!? それとも、どこか怪我してる!?」

早口にまくし立てられた言葉に、首を振って体を起こす。少女のおかげで世界の上下がやっと理解できた。

脇に座り込んだ彼女にそっと伝える。

「大丈夫」

「大丈夫じゃない!」

少女が赤い手袋に包まれた両手で、少年の頬を挟んだ。思わずきょとんとする。

「こんなに真っ白な顔して、冷たくて、そんな薄着でいるなんて、凍っちゃう」

鼻先を赤くした少女の瞳は微かに潤んでいて、申し訳ない気分になる。

少年は赤い手袋に手を添えて言う。

「俺は兎だから大丈夫」

「え?」

「それに一度は死んでいるから」

薄く微笑んでみせる。

白が降っている。確かにこの景色は二度目なのだと、改めて自分に言い聞かせた。



初めて生まれた時、自分は兎だった。

雪のように真っ白な兎。

けれど生まれてすぐに死んだ。

凍てついた世界は残酷だったから。

けれど、神様が現れた。

そして、もう一度だけ命をくれた。雪が溶け終わるまでという期限付きで生まれ変わらせてくれた。

雪兎の魂。人間の姿。

だから、今こうして生きている。



「雪が溶けたら消える約束だけど」

こんな夢みたいな話も、この少女なら信じてくれるような気がした。

まだ雪は降り続いていて、彼女の髪に花びらのように白を散らす。綺麗だなんて笑って思う。

きゅっと少女は膝の上で手を握りしめた。

「私はアカツキ。あなたは?」

名前、ある?――まっすぐな瞳に自分が映る。少年は応えた。

「名前はない」

「ぢゃあ、あなたはコハク」

「コハク……?」

「だって名前がないと不便でしょ?」

アカツキは当たり前のようにそう笑った。

「私、明日もくるわ」

「どうして?」

首を傾げると彼女は少し困ったように、口元に手を当てた。

「兎は淋しいと死んじゃうっていうから?」

その台詞にコハクは目を瞬いた。自分は淋しいと死んでしまうのかと、少し驚く。

けれど、淋しいとはなんだろうと、コハクは思う。

「明日、色々持ってくるからね」

「えっと」

「アカツキだよ」

「ありがとう、アカツキ」

「どういたしまして、コハク」

白の中で真紅の花がそっと微笑んだ。




灰色の雲が空を覆っている。手を伸ばしてもどうやら届きそうにない。

「また寝てる」

「寝てないよ」

寝転んだまま視線を上げる。

そこには紙袋を抱えたアカツキがいた。

「とりあえず、今日はこれね」

差し出されたのは、パンの入った袋。

ありがとう、とそれを受け取る。アカツキは音もなく微笑んで、シートを引いてコハクの隣に腰を下ろした。

今日はアカツキと会って三日目の朝だ。

「コハク、いいかげん雪の上に寝転ぶのやめなよ。冷たいでしょ?」

「でも、こうすると雪が頭の上に積もらないんだ」

パンを半分にちぎって、アカツキに渡す。

コハクは何故か食べ物を食べなくても、生きていけるが、それを知ってもアカツキは食べ物を持ってきてくれる。

そして、コハクはそれをアカツキと一緒に食べるのが好きだ。

「それは動かないでじっとしてるからよ」

「アカツキが来ないと暇なんだ」

「雪だるまとか作れば?」

パンを咀嚼しながら、アカツキが楽しげに人差し指を振る。

雪原に彼女が来れる時間には限りがあって、コハクはその時間以外はよく雪に埋もれている。彼女の足音、さくりさくりと雪を歩く音が聞こえるとふいに嬉しくなることを近頃発見した。

足を使って体を起こす。

「じゃあ、一緒に作ろう」

「それじゃ、意味ないよ。一人でいるときの暇つぶしのはずでしょ?」

「いいよ」

手を使って雪を丸める。

会った翌日にアカツキは白いコートと、手袋とマフラーを持ってきてくれた。だから、コハクの手はいま冷たくない。

「何がいいよ、よ」

嘆息しながらもアカツキもコハクに倣う。そうして、二人で腰ほどまである雪玉を一つずつこしらえた。

「私のが上」

「じゃあ、下」

二人で協力して雪玉を持ち上げて、もう一つの上に乗せる。一番安定する箇所にそっと置いて、手を離す。

ふぅとどちらともなく吐息を零した。出来上がった雪だるまを見てアカツキが呟く。

「顔がないわ」

「そうだね」

「明日、何か持ってくるね」

「ありがとう、アカツキ」

アカツキが笑って、コハクも笑った。

ヤシロは降り続ける雪をいつの間にか恐ろしいと思わなくなった。

それは多分こうしてアカツキが隣にいてくれるからだと思う。

白い世界に赤い彼女がいるだけで世界は途端に鮮やかで、

「アカツキは」

だから、続く言葉は白い世界では見つからない。

「なに?」

「いや、また今度言うよ」

雪だるまを見て、苦く笑う。

コハクは苦笑することを覚えた。上手く言葉が見つからない時、不思議と笑ってしまうことを知った。

「今度、今度か……」

飴を舌の上で転がすように、無意識に反芻された言葉にコハクは応えない。

だって、二人ともちゃんと分かっている。

繰り返され続ける今度なんてないことを。

いつか雪は溶ける。

白い世界は永遠じゃない。



「これでよし」

アカツキが満足げに雪だるまを見つめた。

赤い南天の瞳。長細い楪葉の耳。口は二つの小枝が交差している。

コハクはとりあえず尋ねてみた。

「……なにこれ?」

「雪だるま、雪兎風味だよ」

なんの疑問も感じさせないその笑みに、コハクもまぁ、いいかと思う。

アカツキとヤシロと雪だるま。

なんだか幸せだと思った。

ふっと息が楽になって、それから頭の中が真っ白になっていく。コハクは近頃、こういうことが増えた。

雪は毎日降り積もり、アカツキの足跡は確かに残るのに、次の日には跡形もない。それを見る度に透き通る冷たさを自覚する。

手袋もマフラーもアカツキもいるのに、楽しいと笑っているのに。

「コハク?」

名を呼ばれ、慌てて頭を振る。

頭に積もっていた雪が、思考のかけらと一緒にはらはらと振り落ちていく。

「なんでもないよ、アカツキ」

名前を呼ばれ、呼び返す。それだけでこんなにも満たされていくのに、自分は何が足りないのだろう。

コハクにはわからない。

ふと、空を見上げれば雪が止んでいた。

コハクはだから、アカツキが淋しげに目を伏せたのにも気づかなかった。



なんとなくわかってはいた。

ただ、それだけのこと。

「コハク」

アカツキが呟いた。

白雪は時を止め、コハクの頭の上にはもう降り積もらない。

「もう雪は降らないんだよ」

さらさらとなく風も、もう雪を舞い踊らせはしない。

コハクはぼんやりと空を仰ぐ。どんよりとした雲はもうどこにも見えない。

晴れ渡る青空に太陽が目に痛いくらいに輝く。その熱にまぶたを閉じる。

「なんとなくわかってた」

「わかってたって」

ぱたりと本を閉ざすようにアカツキが、言葉を止める。赤いコートが風に揺れる。

もう雪は降らない。

そうすれば後は

「溶けるだけだ」

コハクは目を開ける。

再び生まれて、アカツキと出会って、今日で6日目。砂時計はもうすぐそこだとコハクはなんとなく気づいていた。

雪だるまを振り返って、心がふっと軽くなる。その軽さは空っぽの軽さに似ていて、少しだけ淋しくなるけれどそれでいい。

「アカツキ」

「なに? コハク」

名を呼べば、彼女は泣きそうに、けれど、だからこそ優しい笑みを浮かべた。

精一杯、笑ってくれた。

そんなアカツキを、コハクは愛しいと思った。いつか言おうとした言葉はそれなのだとやっと理解する。

「明日も来てくれるか」

コハクの穏やかな問いかけに、アカツキは何も言わずに小さく頷いた。



次の日、アカツキは変わらずにコハクを見つけると笑ってくれた。

いつも通り二人でパンを食べて、他愛ない話しをして、消えていく雪なんてまるで目に入らないように二人の当たり前で過ごした。

それでも時折、落ちる沈黙は音もなく降り積もる。穏やかにけれど残酷なほど早く砂時計の砂は減っていく。

やがて陽が陰り、ふいにアカツキが西の空に目を向けた。赤く色付く空は、彼女の横顔を鮮やかに染める。

「コハク、」

横顔のままで静かに名を呼ばれた。

「うん」

「コハク」

「うん」

「……怖いよ」

泣きそうに歪んだ顔がまっすぐとコハクと向かい合う。アカツキのそんな顔を見るのは初めてなのにコハクの心は波紋ひとつ起こらなかった。ただただ穏やかに悟った。

どうしようもなく表情が柔らかくなる。そうきっとこの為だったんだ。

「アカツキ、ありがとう」

その一言でアカツキの瞳に絶望が滲んだ。違う、とアカツキの手を握りしめて笑う。

「やっとわかった。俺が二度生まれた意味」

一度目に生まれた時、コハクのそばには誰もいなかった。親兎はコハクを産んですぐに息絶え、愛されることも守られることも知らず自分もすぐあとを追った。

真白の世界は残酷なほど美しかった。だから、雪が溶けるまでと言い渡された二度目の生はまるで呪いのようで、意味を探すことさえ空虚に思えた。

白銀は恐ろしく、見たくもないものなのに、目につく命の時計になった。恐ろしいからこそ、より美しさを増し目を奪う。命の温かみなど微塵もかんじられないのに。

これがなければ死ななかった。これがあるから生きている。

やがて考えることを放棄して諦めた頃、アカツキが現れた。

そうしてコハクの世界に色をくれた。

彼女の手を優しく握りしめる。

「雪が溶けたら春がくるんだ、アカツキ」

「は、る……」

「これからまた始まるんだ」

教えられた優しさも愛しさも返しきれなかったかもしれない。

まだそばにいたい。アカツキとまだ笑っていたい。

でも、アカツキに雪が溶けないでと祈らせたくはなかった。この冬にアカツキを閉じ込めたくはなかった。春を呪わせたくなかった。だって、コハクは春に憧れていたから。暖かな光が雪を、命を溶かすと知っていても。

だからーーーー

「アカツキに【春】をあげる」

微笑んで彼女の手を離す。

ふわりとわずか残っていた雪が宙に浮かび、きらきらと輝いて空に溶けていく。

雪が溶けたら、春が来る。大切な人を一人で凍えさせることはない。

「コハクっ!」

体がきらきらと透けていく。

泣きながら手を伸ばしてくるアカツキにはきっともう触れられない。

「コハク、私は!」

アカツキが肩を震わせて叫ぶ。

「 私はコハクが羨ましかった! 真っ白で綺麗で、人が持つ醜さを何も持っていなかったから、一緒にいたら自分も綺麗のなれる気がしてっ。だから、だから私は」

溢れる涙が弾けてきらきらと光る。叫ぶアカツキの言葉が愛おしかった。

「アカツキは花に似てる。優しくて柔らかくて暖かいんだ」

「コハクっ!」

光を増した体が空に溶けていく。

消える時は怖くて淋しくて寒いものだと思っていたのに、そのどれでもなかった。口元に浮かぶのは笑み。

「花はきっと春に似合うな」

「コハク……」

「ねぇ、アカツキ」

笑って名を呼べば、アカツキは涙を拭って強い瞳で笑い返してくれた。それにひとつ頷く。

「さよなら、アカツキ」

「さよなら、コハク」

消えていく指先をアカツキに伸ばす。

「俺は淋しくなかったよ」

最後の世界は煌めく視界の中で微笑む彼女。

冬が溶けて、さぁ春がやってくる。









悲しい(かなしい)、そして愛しい(かなしい)雪兎の世界のおはなし。




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