不良娘と保健医
階段を下り、生徒玄関から一歩踏み出せばそこは瞬く銀世界だった。
冬の外気は想像以上に肌寒く、はく息と銀世界はどこまでも白色をしていた。
天気予報は今年はじめての雪だるまマーク、八十パーセントの雪最寄らしい。
その通り早朝から降り出した霙は昼になればはっきりと雪へと変わってあっという間に積雪ができた。
昼間からは太陽が顔を覗かせ、光に照らしだされた雪の絨毯は一面がキラキラと輝いていた。
季節外れの珍しい雪に、午前の授業から解放された校舎の全生徒が一斉に下りてくるのが聞いてとれた。
もうすぐ雪だるまや雪合戦をする生徒達でせっかくの銀世界も見応えがなくなってしまうのだろう、私は服の衿を軽く持ち上げ深く頭を引っ込めると、小さなため息を置き去りに校舎に戻りそのまま保健室へ足を運んだ。
扉を開けば、ほど好い熱気と柑橘系の淡い良い匂いのする保健室。
きっと匂いはデスクに山積みになった沢山の蜜柑の皮からだろう。
ストーブはつけっぱなし無人の保健室はやかんだけがカタカタと忙しい音をたてていた。
私は早速やかんを避けると、ストーブをソファーの足元までずりずりと引っ張り、スリッパを四方八方に飛ばし大の字で横になった。アイロンかけたスーツもシャツもシワになることも気にせず髪の乱れもお構い無しに私はソファーに広々と横になった。
両の手をぐぐっと上げ背伸びしながら背筋をピンとすれば硬直していた筋肉が柔らかくなっていくように感じられた。
暫くすれば校庭やグランドからは生徒達のはしゃぎようが聞いてとれた。
楽しそうな笑い声、きっと雪を使った面白い遊びをしているに違いない。楽しそうだないいなと思い浮かべながら、私はといえばいつまでたっても相変わらず殺風景なクロス張りの天井をただただ眺めていた。
や、久しぶりね、
戸を開くなり私を見て、声をかけること数秒。
あとはデスクへ足を進ませる白衣を纏った彼女の素っ気なさに、私はすこし呆気にとられ直ぐさま笑いが込み上げてきた。
高校卒業以来かれこれ十数年ぶりに顔を合わせた二人。普通なら抱き着いたり会話を重ねテンション上がるのだろうけれど、彼女の相変わらずのしれっとしたマイペースさに私はやっぱりここなんだと小さな笑みがこぼれた。
相変わらず冷血感ね。生徒たちにもそんな調子なの?
ええそうね。知ってるでしょ私のこと、とくにあなたなら。
なに読んでるの?
生徒から没収したエッチな本。嘘、クロノ・トリガーのアルティマニア
へえ、そう、それ日本語?
面白いから一度体験してみればいいわ、はまるから、
へえ、それはエッチな話なの?
ゲームの話。
私は未だ卒業してない気がしてならない。
だって校歌だって一番なら歌いきる自信もあるし、広い校舎のくまなくまで迷うことなく辿り着ける。授業を抜け出して保健室の二人の内容のない不細工な会話は昨日のことのようだ。ここにくれば明日もここにくるような気がしてならない。
けれど、今日の私は違う用件で赴いていた。
娘の大事な大事な授業参観できたのだ。
そして今はその帰りだった。
美樹ちゃん何才になったの?
デスクに背を向け、厚い本を面白くなさそうにペラペラめくる保健医は相変わらず無愛想だった。けれど突然の問いに寝転ぶ私はガバッと上体を起こすと、ストーブの熱さでか、顔をすこし赤らめ視線を下に落とした。
なによもう薮から棒に。もう十才よ、明日娘の誕生日になるんだから何かちょうだいよ。
そうなの、そうね、えー私の愛情とこのアルティマニアをあげるわ。
え、そのエッチな本?
ゲームの攻略本。
やはり二人の会話は馬鹿だった。そして時を経てもそれは変わらないらしい。
やさぐれて授業を抜け出し行き場がない私と、授業が退屈で一人を好む彼女。隠れ家は保健室だった。
私は彼女がいたからよかったのだと、真っすぐここまでこれたのだと思えた。
しかし、未だに彼女の本心が私にはよくわからなかった。基本話さないし迷惑ではないのだろうけど二人いて居心地がよかったのかどうだったのか、未だに聞けないでいた。
お母さん帰ろ、
ピンクのランドセルをしょった小学二年生の娘がそこにいた。
時計を見れば下校も下校の時刻。夕日が眩しい。あまりの懐かしさに時間が経つのを忘れていた。
娘は娘で私を探すため校舎内を歩いて廻ったらしい。すこし目が潤んでいた。
見比べるとやはりよく似てるな。目元なんてそっくりだ。
煙草に火をつけるこの保健医らしからぬ保健医はたまにギョッとする。天井を向きながら煙りをあげると、娘の頭を撫でながら言葉を続けた。
ごめんな美樹ちゃん、先生がお母さん引き止めちゃったから、泣かないかえらいな。うんえらい。お母さんは先生の大親友だからな、また一緒に遊ぼうな。
娘は顔をパアッと明るくさせ二三度なでなでされながら、私はその言葉に不意に昔を思いだしていた。
その日も今日みたいに雪が印象的な寒冷な日だった。
授業を抜け出したがとにかく寒い。そんな日はきまって屋上に寝転んだりしてたのだけれど、そのせいで先生が入れないように鍵を閉めてしまってもう行けない。
教室には戻る気になれない、私は家に帰ることにした。
そこでその日熱っぽかった私は薬だけ貰いに保健室に立ち寄った。
先生はいなかった、けれど無用心にも戸は開いていた。ストーブのやかんがカタカタ音だけがしていた。
そこに女子生徒が一人、静かに本を読み耽っていた。私は、こいつも私に対して悪い小言を言うのだろうと思いながらも何も言わず勝手にベッドで横になった。
ゆっくり目を覚ませば辺りは暗くなりはじめていた。
起きた?
透き通った綺麗な声と柑橘系の匂いに直ぐに目が冴えた。
蜜柑?
好きよ。貴方も蜜柑好き?
今思えばそれが彼女との初めての会話だった。時刻はとうに下校を過ぎていれば人気も感じられなかった。辺りはだいぶ日も沈んだみたいだ。
そこで私が起きるのを待っていてくれたのか聞いたら、小さく彼女は頷いた。
それが私は嬉しかったのだと人生を変えるくらい嬉しかったのだと、
今素直にわかったのだ。