伝承の怪物たち
初投稿です。
文書にお見苦しいところがあるかもしれませんが楽しんでいただけたら幸いです。
ここはドラン王国辺境のとある森
王国中央から馬で約3か月。この場所に、今は多くの兵士たちの野営地が築かれていた。
各々が武器を研ぎ、歩哨が巡回を行うその光景には、さながら戦の前日のようなの緊張感が漂っている。
ことの発端は半年前、雪解けが進み、春の訪れが感じられる頃。
王国はこの辺境の地を開拓するため、調査隊を派遣した。
この辺境域は、王国建国当初から存在自体は確認されていた。しかし、冬の厳寒、そして夏には熱帯さながらとなる過酷な気候ゆえに、開拓はおろか調査すらままならず、長年名目上の領地として放置されていた地域である。
流れが変わったのは昨年即位したばかりの新王により、辺境開拓の王命であった。
近隣諸国との戦争に疲弊し、人心は荒れ、飢饉が民を襲っていた王国。
このままでは国家の存亡が危ぶまれると焦った国王は、辺境の開拓によって職と食を民に与え、自らの人望を得ようと考えたのだ。
まったく、浅はかな考えだ。
さて、調査隊は無事に辺境域に到着し、調査を開始した。
調査隊は農業の知識人や植物学者、護衛の兵士などで構成する100名程度の隊である。
当初は順調に調査を進め、新種の植物や開墾に適した土地を発見することもできた。
また、当初懸念されていた気候も、想像以上に安定しており、定住も可能ではないかと思えるほどの土地であった。
事件が起きたのは調査開始から2週間が経った頃。
辺境域の入口を調査し終えた一行は、さらなる成果を求め辺境の奥に踏み入った。
目指す先は辺境の入り口からほど近い森林である。
現在の拠点に数名の連絡係を残し、彼らは森の中へ進んだ。
巨木が立ち並ぶその場所は、陽の光が遮られ、不気味なほど鬱蒼としていた。
最初の犠牲者は後方を歩いていた植物学者であった。
若くして今回の調査隊に選ばれるほどの優秀な人物であった。
王国の未来のため、情熱をもって調査にあたっていた彼を襲ったのは、いままで経験したことのない衝撃だった。
人の身では味わえない浮遊感。
何が起こったのか理解する間もなく、彼は先頭を行く仲間たちをを飛び越え、そのまま巨木へと叩きつけられて絶命した。
血痕を残して変わり果てた彼の惨状に、調査隊はすぐさま警戒態勢をとり、彼がいた後方を振り返る。
――だが、時すでに遅かった。
巨大な「何か」が、すでに彼らの頭上へと振り下ろされる瞬間だった。
その後、満身創痍で野営地に生還した兵士から、森林内で起こった惨劇が伝えられた。
瀕死の彼が遺した言葉のほとんどは聞き取れなかったが、最期に絞り出した一言は、
「黒い獣」
であった。
調査隊の壊滅から、半年後。
今回この地に派遣された兵士は、総勢1000名。
調理や後方支援を担う輜重要員も含めれば、1200名にも及ぶ大部隊だ。
課せられた任務は、先の調査隊を壊滅させた「何か」の正体を突き止めること。そして可能であれば、その“何か”を排除することである。
「調査」と銘打ってはいるが、実態は原因の排除――つまりは討伐が主目的だ。当然ながら、今回の一隊に学者などの非戦闘員の姿はなかった。
肝いりの政策が調査段階で躓いたことに、新王は激怒したという。これほどの大部隊が動員されたのも、面目をつぶされた国王の怒りの大きさを物語っていた。
面目をつぶされてお怒りなのだろうと王国兵士のセルゲイはぼんやりと考えていた。
セルゲイは今年で入隊10年目のベテランである。
過去の戦争にも従軍し、生き残ってきた猛者である。
相手が人間であれば、生き残る自信も技術もある。だが、今回の遠征に臨むセルゲイの胸中は、酷く憂鬱だった。
セルゲイ自身、この辺境近くの小さな村の出身である。
幼少期、村の古老から「あの森には土地の守り神が住んでいる。いたずらに荒らしてはならん」と耳にタコができるほど聞かされていた。
当時、じっとしていることの嫌いだったセルゲイ少年は、老人の昔話よりも体を動かすほうに夢中で、古老の言葉をまともに聞いていなかった。
(今になって、もっと真面目に聞いておくべきだったと後悔するなんてな……)
そんな憂鬱な気分を紛らわせるため、一人で黙々と剣を研いでいると、背後から豪快な声が降ってきた。
「おい、セルゲイ!お前もここにもいたか!」
声の主はウラジーミルという。
10年前に兵士として志願依頼、なぜか戦場で何度も顔を合わせる男だ。
共に修羅場を潜り抜けてきた戦友といえる。
共に幾度も死線を潜り抜けてきた、文字通りの戦友と言える。
大柄で筋肉の塊のようなその体躯は、見方によっては熊そのものだった。
「ウラジーミルか。帝国との戦い以来だな」
「相変わらず人付き合いの悪いやつだな。もっと再開を喜んだらどうだ、友よ?」
余計なお世話だ。
「根暗で悪かったな。お前はてっきり、もう退役しているものと思っていたが」
ウラジーミルは結婚しており、王都にポリーナという妻を残している。
一度会ったことがあるが、可愛らしく愛想のいい女性で、正直この熊にはもったいないと思ったものだ。
「おうよ! 今回は『腕利き募集』ってことでな。かなりの報奨金が見込めるから志願したんだ。ポリーナとの今後の生活のためにも、もういっちょ一稼ぎしてやろうと思ってな!」
相変わらず、この男らしい豪快な答えだった。
「それはいいが、よくもこんなきな臭い仕事に志願したもんだ。お前はもっと、敵味方のハッキリしたわかりやすい戦場が好みだと思っていたが?」
「最近は不景気でな。戦争の仕事がめっきり減っちまった。腕っぷし一つで稼げる仕事は、いまや奪い合いよ」
ウラジーミルはそう言って豪快に笑った。
この豪快な戦士にとっては、相手が何者であれ、多少のきな臭さなど大した問題ではないらしい。
「お前のような性格なら、どれほど生きるのが楽だったろうな。……だが、お前も分かっているだろう? 今回の相手は人間じゃない」
「もちろんだ友よ。おそらくワイバーンかトレントか。
もしかしたらドラゴンなんてもんが出てくるかもしれん」
この世界には【魔獣】と呼ばれる存在がいる。
人の生活圏を脅かし、危害を加える生物の総称だ。
よく出現する暴牛や角ウサギの類であれば、訓練を受けた兵士が数人いれば十分に退治できる。
しかし、それがワイバーンやバジリスクともなれば、軍を編成した討伐隊が必要不可欠となる。
そして――それ以上の存在となれば、文字通り国家の存亡を賭けた大戦になる。
「ただのワイバーンなら、この戦力は過剰なほどだ。だがな、相手は前回の調査隊を、兵士も含めて全滅させている。しかも、まともに姿すら見られていない。相当に知恵が回るぞ」
長く生きた魔獣の個体には、相応の知性が宿る。
そういう「狡猾な」魔獣ほど、戦う上で厄介なものはない。
「問題あるまい。まあ、誰かしらは死ぬだろうが、その隙に囲んで潰せばいい話だ。……にしてもお前にしちゃ珍しいな。まさか、臆病風に吹かれたか?」
豪快に笑うウラジーミルに呆れ果て、セルゲイはそれ以上言葉を返すのをやめた。
その後、案の定始まったウラジーミルの惚気話を永遠と聞かされる羽目になり、「王都に帰ったら一杯奢れ」と約束させられて、ようやくその日の眠りにつくのだった。
翌日は曇天であった。
どんよりとした空の下、兵士たちは装備を整え、無言で整列している。
先頭に立つのは、今回の遠征隊を率いる軍団長だ。
なんでも新王お気に入りの将軍らしいが、これまで数々の修羅場をくぐってきたセルゲイですら、その顔を戦場で見たことは一度もなかった。
おそらく、どこぞの貴族が金で買い叩いた地位なのだろう。実際、実権を握っているのは傍に控える部隊長たちであり、彼らが前線の指揮を執る。
「まったく、面倒なことこの上ない」
軍団長の何とも気の抜けた号令を合図に、辺境への進軍が開始された。
これより先は森林戦となる。生い茂る樹木の影響で視界は最悪、おまけに馬も使えない。
そのため斥候を多めに配置し、死角を潰しながら慎重に歩みを進めていく。
こんな木々が密集した森に、1000名もの大軍が列をなして行軍できるはずもない。
部隊は20名ほどの小隊に細分化され、さらに千鳥状に分散して捜索にあたることとなった。
なお、緊急時には即座に「のろし」を上げ、それを合図に全軍が一時撤退する手はずになっている。
森林の捜索を開始して、2時間が経過した頃。
「おい、セルゲイ」
気づけばウラジーミルが傍まで来ていた。
「どうしたウラジーミル?」
「やっぱりここはおかしい。これだけ奥に入っているってのに、動物一匹いやしねえ」
いつもなら豪快に笑っているはずの戦友が、真剣な表情で周囲を油断なく見回している。
「お前も気づいたか。……おそらく、薄々勘づいている奴は他にもいるだろうな」
これほど広大な森林でありながら、小鳥のさえずりどころか、小動物一匹の気配すら出会わない。
ほどなくして、一行は不自然なまでに開けた場所に到着した。
その瞬間、何かにじっと見下ろされているかのような、総毛立つ悪寒が全身を駆け巡る。
「気をつけろ。近いぞ」
緊張感が極限まで高まった、その時だった。
「――ピィイイイイ!」
静寂を切り裂き、斥候の危険を知らせる笛の音が響き渡った。
「構えろ!」
部隊長の鋭い号令とともに、全員が瞬時に戦闘態勢をとる。
次の瞬間、黒い鞭のような「質量」が、猛烈な横なぎとなってセルゲイたちを襲った。
間一髪で地面に転がり、それを避けたセルゲイだったが、同じ場所に居合わせた3名の兵士は回避が間に合わなかった。
もろに衝撃を食らい、弾け飛んで巨木に叩きつけられ、物言わぬ肉塊と化す。
辛うじて体勢を立て直したセルゲイの目に飛び込んできたのは、全身を漆黒の鱗に覆われた、巨大なワイバーンだった。
通常の個体であれば馬車程度の大きさだが、眼前の化物は優に「家屋」ほどの大きさがある。
黒いワイバーンはこちらを一瞥すると、残りの獲物をなぶり殺すべく、その恐るべき尾を再び振り下ろしてきた。
セルゲイは反射的に横へ飛び退いてこれをかわし、着地ざま、カウンターでその尾に剣を叩きつける。
だが――異常なまでに硬質な鱗の前に、刃は虚しく弾かれた。
手首にジィンと凄まじい衝撃が残る。まるで岩を叩き斬ろうとしたかのような感触だった。
ワイバーンは一瞬で尾を引き戻すと、大木から大木へと驚異的な跳躍で飛び移り、瞬く間に姿を消した。
あの巨体でありながら、恐るべき俊敏性だ。
「無事か、セルゲイ!?」
ウラジーミルが心配そうに駆け寄ってくる。
「なんとかな……。あれがこの森のヌシか?」
「おそらくな。あんな規格外のデカブツ、見たこともねえぞ。それよりも、なんだあの動きは。ワイバーンのくせに、まるで猿みたいに木々を伝いやがった」
「ここで狩りをするために特化した個体なんだろうよ。あの尾を使って、木々の隙間から死角を突いてきやがる。……これじゃあ、前の調査隊が気づく間もなく全滅したわけだ」
大木の陰に身を潜め、通りかかった獲物を自慢の尾で叩き潰す。
それが奴の狩りのスタイルのようだ。
暗がりに強い優秀な斥候が事前に警告してくれなければ、今頃自分たちも地面の染みになっていただろう。
ほどなくして、散り散りになっていた他の部隊員が集まってきた。
部隊長が顔をしかめながら、絶命した3人の検死を行っている。
奴の尾の先端には、刃のような突起がついていたらしい。
鋭く引き裂くと同時に、凄まじい打撃を叩き込む代物だ。
つまり、まともに喰らえば即死を免れない。
「あ、あいつは……どこへ行ったんだ?」
近寄ってきた若い兵士が、ガチガチと歯を鳴らしながら怯えた声で尋ねてくる。
「木々を伝って逃げた。おそらく、一撃で仕留めきれないと分かると、一度身を隠す習性があるらしい」
「強え上に狡猾ときた。油断も隙もありゃしねえな」
ウラジーミルが忌々しそうに悪態をつく。
「まずは他の部隊へ情報を共有するべきだな」
部隊長が撤退ののろしを上げようと手をかけた、まさにその時だった。
「――ピィイイイイ!」
遥か遠方から、再び斥候の笛が響き渡った。
奴が、次の獲物に狙いを定めたのだ。
セルゲイたちが音の方向へ駆けつけると、そこには文字通りの地獄が広がっていた。
原型を留めていない、20から30ほどの死体の山。
今まさに、巨大な顎に噛み砕かれようとしている兵士。
そして、死に損ねて内臓を撒き散らしながらのたうち回る者たち――。
彼らも斥候の警告は受け取ったはずだが、奴の超常的な速度を前に、回避が間に合わなかったのだろう。
「助けて、助けてくれぇえええええ!」
今まさに喰われんとする兵士の、引き裂かれるような悲鳴。
それに誰よりも早く反応したのは、やはりウラジーミルだった。
「おおおおお!」と雄叫びを上げ、自慢の大斧をワイバーンの前肢へと振り下ろす。
重い打撃が炸裂し、致命傷とまではいかないものの、漆黒の皮膚にかすかな傷を刻み込んだ。
たまらずワイバーンは、咥えていた兵士を地面へと放り出す。
どうやら、あの忌々しい尾に比べれば、胴体や四肢の鱗は比較的柔らかいらしい。
ウラジーミルは好機と見て、さらに奴の懐へと潜り込み、剥き出しの腹部へ追撃の刃を繰り出そうとした。
しかし、奴は驚異的な脚力でバックステップを踏み、付近の大木へと軽々と飛び移って、再び上方からこちらを睨みつける。
「賢い野郎だ。……ただ、どうやらこの密林じゃ、満足に羽ばたいて飛べねえようだな」
ウラジーミルが大斧を担ぎ直し、不敵にニヤリと笑った。
騒ぎを聞きつけほかの部隊が集まり始めた。
「こいつが調査隊を壊滅させた魔獣だ! 総員、包囲しろ!」
セルゲイの部隊長が大声で叫び、兵たちを鼓舞する。
「うむ! 今こそ邪龍を討伐し、我が王国の調査隊の仇を討つ(うつ)のだ! 全軍、攻撃開始!」
いつの間にか安全圏から這い出てきた、お飾りの軍団長がここぞとばかりに檄を飛ばす。
――こうして、漆黒のワイバーンと1000人の兵士たちによる、血で血を洗う激闘の火蓋が切って落とされた。
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果てしない、無限とも思える追いかけっこだった。
何度も逃走を図るワイバーンを追いかけては斬りつけ、また逃げては追いかける。
気がつけば陽は傾き始め、こちらの兵士たちは完全に疲弊し、死傷者の数は増え続けていた
だが、それはワイバーンとて同じだった。
全身におびただしい傷を負い、自慢の尾は刃こぼれのようにボロボロに損耗している。もはや木にしがみつく力すら残っていないのか、巨躯を地面に横たえ、荒い息を吐いていた。
勝った。すでに討伐は間近であると、誰もが確信していた。
――自分たちが、決して踏み込んではいけない神域に足を踏み入れたとも知らずに。
「……観念したようだな」
セルゲイは口元にこびりついた血を袖で拭いながら、力なく伏せるワイバーンを睨みつけた。
恐ろしいワイバーンは今では力なく地面に横たわっている。
「俺たちの勝ちってわけだ。ほら言っただろセルゲイ、囲んで殴れば勝てるってよ」
隣のウラジーミルも、自慢の大斧はボロボロに欠け、全身擦り傷だらけの満身創痍だった。
「お前の言った通りだったな。さて、とどめはどうする? お前がやるか?」
「いや、あのお貴族様がやりたがってんだろ。……チッ、こんなところでいつまで待たせる気だよ」
瀕死の獲物を前に動きを止めているのは、お飾りの軍団長に最後の手柄を譲るよう、部隊長から待機を命じられているからだった。戦場の前線で、なんと馬鹿げた政治的配慮だろうか。
「早く来てくれねえかな」
ウラジーミルがそう吐き捨てた、その時だった。
「お前たち! 大儀である!」
ようやく、バカ殿のお出ましだった。
「これより正義の鉄槌を邪龍に下す! 我らは英雄として、未来永劫語り継がれるであろう!」
(はいはい、分かったから早くやってくれ)
セルゲイが心の中で毒づいた、まさにその瞬間だった。
軍団長が現れ、全軍の警戒が完全に緩んだ一瞬の隙を突き――横たわっていたワイバーンが、突如として跳ね起きた。
戦場での油断は、即座に命取りとなる。
ワイバーンは恐るべき執念で大木にしがみつくと、猛烈な勢いで逃走を始めた。
「いかん!追いかけろ!」
部隊長の怒号が響き渡る。
しかし、すでに勝利を確信して慢心し、疲れ果てた兵士たちに、それを追う余力など残されていなかった。ワイバーンにとっても、これが文字通り最期の力だったのだろう。
奴はこの一瞬にすべてを賭け、そして生き残るための賭けに勝ったのだ。
セルゲイもウラジーミルも、一歩も動けなかった。
駆け抜けていくワイバーンの背中を呆然と見送る。
その時、セルゲイの胸の中に、説明のつかない奇妙な違和感が這い上がってきた。
遠くの、鬱蒼とした暗がりの奥から。
何かが、こちらを見ている。
あまりにも巨大な「何か」が、こちらをじっと見下ろしている。
あの家屋ほどもあるワイバーンが、まるで小さな子犬に見えてしまうほどの圧倒的な質量。
セルゲイはふと思い出す。
村の古老が語っていた「守り神」とは、本当にワイバーンのことだっただろうか。
――いや、違う。
古老は確かに、守り神は『獣』だと言った。ワイバーンなら、竜かトカゲと呼ぶはずだ。
逃走するワイバーンは、九死に一生を得た歓喜に酔いしれ、周囲がまるで見えていなかった。
この先が、決して立ち入ってはならない絶対の禁忌であることも、頭から吹き飛んでいたのだ。
そこに、あの「異常な怪物」が潜んでいることも。
結末は、あまりにも唐突だった。
全速力で逃げていたワイバーンが、突如として空中でピタリと停止したのだ。
何百もの兵士たちが、信じられないものを見る目でその光景を仰ぎ見た。
よく見れば、大木と大木の隙間から、何かが突き出ている。
……腕だ。
太く黒い一本の腕が、ワイバーンの首を容赦なく掴み取っていた。
そして――「それ」が、ゆっくりと姿を現した。
熊だった。
あまりにも巨大な。いや、大きすぎる。
全長で言えば、王都の「城」に匹敵するほどのサイズではないか。
この巨体を、今まで一体どこに隠していたというのか。
全身を漆黒の剛毛に覆われた怪物は、その巨体には似合わないほど無垢でつぶらな瞳で、掴み上げたワイバーンを見つめている。
そしておむろに両手を添えると、パキッ、と、小枝でも折るような小気味よい音を立てて、ワイバーンの身体を「折り畳んだ」。
あり得ない方向に骨肉をひしゃげられ、ピクリとも動かなくなったワイバーンをしばし見つめた後、熊は興味を失ったようにそれを地面へと投げ捨てた。
そして、縄張りを汚した新たな侵入者――セルゲイたちを排除するため、ゆっくりとこちらへ歩を進めてきた。
あまりの超常的な光景に、兵士たちはただ呆然と立ち尽くし、指一本動かすことができない。
一歩、また一歩と近づいてくる怪物。その巨体が迫るごとに、本能に刻まれた剥き出しの死の恐怖が、全員の精神を磨り潰していく。
やがて、状況を理解したのか、あるいは恐怖の限界を迎えたのか。
沈黙を破ったのは、先ほどまで英雄気取りだったお飾り将軍の、悲惨な金切り声だった。
彼は叫び声をあげながら一目散に逃げ出した。
それを合図に、堰を切ったように兵士たちが逃げ惑い始める。
それを見た巨熊も、突如として地鳴りのような速度を上げ、猛然と突進してきた。
現場は一瞬で地獄と化した。
数百名の兵士が我先にと逃げ惑い、将棋倒しになる。
熊に近い位置にいた者たちは、逃げる間もなく踏み潰され、一瞬で地面の染みと化していった。
「おい!とにかく逃げるぞ!あれは人間の手に負える代物じゃねえ!」
見事なまでに顔を青ざめさせたウラジーミルに怒鳴られ、セルゲイたちも必死に地を蹴った。
その間にも、背後の地鳴りはどんどん速度を上げ、兵士たちを容赦なく蹂躙していく。
ある者は踏み砕かれ、ある者は剛腕の一振りで消し飛ばされ、ある者は飛び込んできた巨体の質量に押し潰される。
勇敢な兵士が足を止め、命を賭して剣を振るったが、熊はそれを行く手の羽虫ほどにも介さず、ただ前進するだけで軍勢を圧殺していった。
凄まじい悲鳴と絶叫を背中に浴びながら、セルゲイは振り返ることなく走り続けた。
しかし、大地を揺らす足音は、刻一刻と、確実に近づいてくる。
「ウラジーミル。……友よ、今日までありがとうな」
死を悟ったセルゲイは、隣を走る戦友に最期の感謝を告げた。
「らしくねえな、友よ。……いや、だが、こいつは本当にダメかもな。最後に、お前と一緒に戦えてよかったぜ」
同じく終わりを察したのだろう、ウラジーミルが苦笑いを浮かべて同調する。
「どうせ死ぬなら、最後に一泡吹かせてやろうと思うんだが。……やるか?」
「いいじゃねえか! 人間様の底力ってやつを、あのデカブツに見せてやろうぜ!」
もはや足音はすぐそこ、背中の皮一枚のところまで迫っている。
最後に一矢報いるため、セルゲイは覚悟を決めて剣を強く構えた。
ウラジーミルもまた、不敵な笑みを浮かべて大斧を握り直す。
そして、奴に向かって飛びかかろうと、全速力のまま反転した、その瞬間――。
熊は、停止していた。
先ほどまで狂ったような速度で人間を蹂躙していた巨熊が、ピタリと動きを止め、そのつぶらな瞳でじっとセルゲイたちを見下ろしていた。
そして――おもむろに、その強大な前腕を地面へと叩きつけた。
ドォオオオオオオン!
凄まじい衝撃波と爆風が巻き起こり、セルゲイたちの身体は木の葉のように吹き飛ばされた。
奴が腕を振り下ろした場所には、巨大なクレーターが出来上がっている。
(これ以上、我が領域に立ち入るな――)
そう無言で告げるかのように、吹き飛んだセルゲイたちを一瞥した巨熊は、やがて興味を失ったように踵を返し、静かに森の奥へと消えていった。
遠ざかっていく山の如き背中を見送りながら、セルゲイの意識は、深い闇の中へと落ちていった。
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その後、自分がどうやって生き延びたのかは、よく覚えていない。
気がついたときには森林の入り口まで戻されており、後方支援部隊に回収されて治療を施されていた。
巨熊に襲われたあの日から、すでに2日の月日が流れていた。
視線を巡らせると、隣の簡易ベッドには見慣れた巨躯が横たわっていた。
「よう、友よ。お互い、とんだ死に損ないだな」
ウラジーミルが痛々しく包帯を巻きながらも、いつもと変わらぬ豪快な笑みを浮かべて声をかけてきた。
「……本当にお互い、悪運だけは強いらしい」
セルゲイもフッと口元を緩め、五体満足で生きて再会できた喜びを静かに分かち合った。
ちなみに、我先にと逃げ帰ったあの腰抜けのお飾り将軍も無事だった。
しかし、よほどの恐怖だったのだろう。将軍は逃げ帰るや否や、すぐにでも王都へ帰還するよう全軍に指示を出すと、それきり将軍用の豪華な天幕に引きこもって出てこなくなった。
何はともあれ、これでようやく故郷に帰れる。
セルゲイは張り詰めていた心の糸を少しだけ緩め、泥のような深い眠りに再び落ちていった。
――その後、遠征部隊は命からがら王国へと帰還した。
今回の遠征において、森林へ足を踏み入れた1000名のうち、死亡が確認された者は580名。
行方不明者は40名。
無事に帰還できたのは、わずか380名に過ぎなかった。
通常の戦争であれば「全滅」と定義される凄惨な大敗北である。
この有り様を聞いた新王は激怒し、その後も打倒「黒い獣」を掲げて三度にわたり遠征隊を派遣したが、結果はことごとく凄惨な失敗に終わった。
度重なる無謀な遠征と、それを賄うための重税により民の生活は困窮を極め、やがて各地で大規模な暴動が勃発することとなる。
さらに、王国の弱体化を察知した隣国・帝国からの苛烈な侵略に遭い、王国はかつての栄華を失い、広大な領土を割譲する破目になった。
ウラジーミルはこの遠征の直後、宣言通り完全に軍を退役した。
今は生まれ育った王国を離れて帝国へと移り住み、愛する妻とともに小さな定食屋を営んでいるという。
あのお飾り将軍は、遠征失敗の全責任を押し付けられる形で完全に失脚した。
剥ぎ取られた名誉と、あの森で植え付けられた絶対的な恐怖が頭から離れなかったのだろう。やがて精神を病んだ彼は、数年後に自ら命を絶った。
さて、私はというと――。
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ここは、帝国のとある活気あふれる街角。
あの日から数十年が経ち、私はようやく旧友との約束を果たすために旅をしていた。
目当ての定食屋の扉を開けると、中はおいしそうな油の匂いと、多くの客たちの賑やかな声で満ちていた。
手際よく立ち回る店員に案内され、空いているカウンター席に腰を下ろす。
「ひさしぶりだな、友よ!」
厨房の奥から、あの頃と全く変わらない、地鳴りのような豪快な声が降ってきた。
エプロンを身につけたウラジーミルが、満面の笑みを浮かべてこちらを見ている。
「随分と繁盛しているようだな、友よ」
私も思わず、相好を崩して応えた。
「おうよ! ここに店を構えてもう20年だ。今じゃこの界隈じゃ負け知らずの有名店だぜ?」
「かつて戦場で大斧を振り回していた男が、まともな飯を作れるのかと心配していたんだがな」
「がはは! お前には言われたかねえよ。まさかあの根暗な一兵卒が、高名な『古生物学者』の先生様になるなんて、誰が想像できるかってんだ」
ウラジーミルの言う通り、現在の私は、世界各地の伝承や太古の生物を紐解く古生物学者として生計を立てている。
あの日、あの辺境の森で目撃した大熊。あれは私に世界の広さと死の恐怖を植え付けると同時に、その圧倒的で、神聖な存在への拭い去れない興味を抱かせてしまったのだ。
人の知恵などでは決して測り知ることのできない、本物の【怪物たち】。
彼らは今も、人知れずこの地上のどこかに息を潜め、世界の行く末をひっそりと見守っているのかもしれない。




