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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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森の湖の夜

作者: 夢野しらべ
掲載日:2026/04/18

 静かな森の中を、僕は歩いていた。何時かなんてわからなかったけれど、たぶん夕暮れの頃。森の中は薄暗かったけれど、木々の隙間から、少しだけ夕焼けのオレンジ色が見えていた。森は、生命力に溢れた美しい姿を僕に見せていた。

 それに引き換え僕は、ぼろぼろの服で、体は傷だらけ、顔は死人のよう。とても無様で、みっともない姿。誰にも見られたくないし、自分でも見たくない。僕は自分の姿を気にするばかりで、周りの景色なんてちっとも見えていなかった。


 足が重い。そう思って足元を見ると、道は真っ黒なタールのような泥で覆われていた。泥が靴に張り付いて、重く、とても歩きにくい。いつの間にこんな道を歩いていたのだろう。

 こんなところにいつまでも居たくはない。僕はなんとか歩いた。どこに向かっているかなんて、わからなかったけれど。

 黒い泥の道の終わりに、湖があった。木々が開けたその場所は、湖面が風にさざめいて、映ったオレンジ色をバラバラにして揺らめかせていた。

 僕は吸い寄せられるように湖面へ近づき、のぞき込む。みっともない自分が映っていた。

「やぁ、久しぶりだね。」

 見たくもないと思っていたけれど、あまりに哀れなその姿に、思わず声をかけた。返事なんてなかったけれど。

 そのまま僕は、湖面の僕へと話し続けた。


 いつしかオレンジ色が消え、世界から色が消えていった。僕は湖面の僕に話すのをやめ、そこに座り込む。そして思い返していた。僕の、これまでのことを。口の中で何か苦い味がして、僕は顔をゆがませる。辺りは、夜の闇に包まれていった。


 雨が降ってきた。僕の体に温かな水滴がまとわりつく。肌がひりひりと痛む気がした。頬を雫が伝っていく。震えるような吐息を一つ吐き出して、僕は目の前の湖に飛び込んだ。あの雨に触れたくない。僕は、どんどん水の中を潜っていった。

 やがて湖底に辿り着いた。暗いけれど、静かで落ち着く。あの雨もここまでは届かない。僕は少しほっとして、砂地みたいな底に座り込んだ。そしてまた思う。僕のしてしまったこと、それから、やらなかったことを。胸の中に水が入り込んだように、息苦しくなる。声にならない声と共に漏れ出た息が、球になって上って行った。


 どれくらい経っただろう。ふと顔を上げると、ずっと上の湖面の方がぼんやりと光って見えた。月明りだろうか。白っぽい優しい光の線が、僕のところまで差し込んでいた。

 あそこに行きたい、と思った。あの光の元へ行けば、僕はこのみっともない姿から、美しく生まれ変われるかもしれない。変わりたいんだ。でももし、もっと無様になったら?いいや、今のままは嫌なんだ。だけど……。

 水が揺らめき、砂を巻き上げた渦となって、光を遮った。

 …僕は、行けない。


 またうずくまって、僕のこれからのことを思う。いつまでここにいるのだろう。ここに居たいわけではない。でも、ここは安全なんだ。暗いけれど、とても静かだ。

 突然、辺りに声が響いた。

「お前は救われる。」

 それがどこから聞こえてきたのかは、分からなかった。けれど、確かに聞こえた。

 僕はもう一度、ずっと上の湖面の方を見た。また、ぼんやりと光っている。あそこから聞こえてきたのか?

 僕は立ち上がり、湖面に向かって泳ぎ始めた。深く深く潜っていたらしく、水上が遠い。腕も足も重い。でも、あそこへ行って、確かめたい。

 湖面に顔を出すと、闇の中でまだ雨が降っていた。疲れ切ってしまいもう泳げない僕は、湖から出た。あの光は、どこにもなかった。

 その時、僕の体中に付いた傷から、血が滲み始めた。そしてそれは瞬く間に流れ始め、肌と服を赤黒く染めていく。僕は痛くてたまらなくて、呻き声を上げた。鼓動と共に、体中から熱いものが出ていく。息も出来なくなってきた。

 痛い。苦しい。死んでしまう。助けて。

 やがて視界が、墨のような黒で染められていく。

 苦しい、痛い、苦しい、苦しい……。

 僕は両ひざから崩れ落ち、そのまま倒れこんだ。


 目を覚ますと、朝日が昇りかけていた。体を見ると、血は止まっている。相変わらず傷だらけだったけれど、あの猛烈な痛みと苦しさは消えていた。死んでしまうかと思ったけれど、死なないものだな、とぼんやり思う。溢れ出た赤黒いものを思い返しながら、昇りゆく太陽を見つめた。


 ひとしきり朝の風景を見てから、僕は歩き始めた。来た時とは違って、歩きやすかった。どこへ向かうかは、なんとなく分かっている。森には生命が溢れ、僕はそれらをひとつずつ眺めては、美しいと感じていた。

 ふと僕は立ち止まり、自分の体を見る。そこにある傷跡を、確かめるようにひと撫でした。


 静かな森の中を、傷だらけの僕は一人で歩いていた。やがて森の入り口が見えてきて、そこに誰かが立っているのが見えた。

 そこにいたのは、僕の……。

 その瞬間、力強い鼓動と共に血液が広がり、体中を巡っていく感覚があった。拍動が指先にまで及ぶ。忘れていたものが、僕の中を巡っていた。


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