7-④
「あれ? 和葉ちゃんのお父さん。もう和葉ちゃんおむかえ来ましたよ?」
「え? 誰がですか?」
「お母さんが来てましたけど」
「は、はぁ……」
珍しく早上がりだったのか、聖子がすでに迎えを済ませていたらしい。出鼻を挫かれる形となったが、これはあくまで手段の1つにしかすぎず、僕の「家族がハッピー仲良し計画」が崩れたわけではない。
「でも和葉ちゃん、みんなからすごい人気だから、いつもより早く帰っちゃって他の子がっかりしちゃってましたよ」
社交辞令な世間話に「そうですか」と淡白な反応をするが、久しぶりの和やかな会話に心は休まった。だがそれによって感情が高まったことで、脳に糖分が回ったような気がしてちょっと冷静になり、すると何故だか、また一瞬だけあの生暖かい風を感じて、少し肌がピリッとした。
嫌な予感がしたのだ。僕は軽く一礼をして足早に帰宅しようとしたが、その足を置いたペダルが家に近づくたび、鉛が1つ、2つと増えていくような、自分が今に成し得たいと思っていることに、直観的な足取りの重たさを感じた。この矛盾に、何故だかすごく気持ちが悪くなった。
5年も彼女と共にしているのだ。この直観がただの杞憂とは思えず、感覚が研ぎ澄まされていく。家に着くも、扉の前で無駄な躊躇が及んでしまう。口の中に痰の味が広がっていくのを噛み締めて、玄関の扉をゆっくり開けた。
「た、ただいま」
靴置き場は静寂で、隙間風と耳鳴りだけが鼓膜を揺さぶる。妙だ。時刻は5時半、和葉が帰ってきているのであれば、こんなにも閑散としているわけがない。それとなく息を潜ませながら廊下を軋ませ、淡く明かりが漏れ出ているリビングへと虫の気分で引き寄せられていった。覗き込むように顔を向けると、そこに座る聖子とばっちり目が合った。
「あら……、おかえりなさい……」
「あ、ああ。今日は早かったんだな」
「……………………ええ」
「…………」
気まずさが蔓延るのは仕方がない。情けなかろうと当初の予定だけは済ませたく「日曜日、やっぱり僕も行くよ」を数十回は頭に巡らせ、不安は残るがいざ言ってやろうと決心し終えた。
(やはりまずは何気ない会話から入るのがいい。和葉の話から連鎖していって『そういえば次の日曜日は』までいけばもう僕のものだ)
さらには和葉が近くにいれば言いやすさも倍増する。そう思って娘の姿を確認すべく、辺りを見渡した。
「あ、あれ? 和葉は?」
「和葉……もう寝たわ……」
「寝た? まだ5時半なのに?」
「帰ってから……2時間くらい、ずっと……遊んでたもの……、疲れちゃった……のよ」
僕は困惑で、まくしたてるように問いただした。
「2時間前って……3時だよ? そんなに早上がりだったのか」
「……辞めたの」
「え……」
「仕事……、辞めて……きたのよ」
理解が追いつかない。まん丸にした目を3度まばたきしてみると、聖子はそれを察してか、簡潔に理由を説明した。
「智光さん……、昨日……私じゃあ……家族を理解できない……って」
「……っ! ……言った。言ったが、あれは僕も感情的になりすぎたっていうか……、悪かった──」
「だから……辞めたのよ……」
言葉が頭に入ってきて、それを脳みそで組み立てようとすると、もうグダグダなだけのプランが介入すれば、横流しも今になって呼び起こされる。僕の思考は冷静ではいられなかった。パニックだった。それらすべてを焼き尽くす、感情の渦が差し迫って来る。
「みんなが……みんな……、君みたいだと……って、言った……わよね?」
「言った! 言ったけど……っ!」
「これで……! 私も……家族の……一員よ……ね」
そういうと、彼女は微笑んだ。その微笑は普段と同じなようで違い、僕の目にはとても魅力的に見えた。僕は勘違いをしていたらしい。
「……今日、会社で、不自然な仕事がきたんだ。あれは……」
「うん……私が……。智光さん……あの仕事がうまくいけば……喜んでくれるかな……って」
「で、でも!」
「もし……ばれちゃって……怒られても、家族の理解は……できるし……、我ながら……いい……でしょ」
この瞬間、僕の理性の線がプツンと切れた。それは、怒りでもなく、呆れでもなく、恐怖。瞬く間に五体が支配されていき、渦は理性より強く、考えるより先に脳は体へ信号を送っていた。理性が到達する頃には介入の余地などなく、僕には和葉が見ていたらどうしようかと、一旦辺りを見渡す猶予が生まれるだけであり、その一連の動きを見ていた彼女に確信をもたらすだけであった。
天に伸びていく平手を眺め、すっと目を閉じ、この平手は唇だと言わんばかりの愛らしい表情に、僕の防衛反応はピークを迎えたのだった。
*
「嫌いだ。もう、僕にかまうな」
紙芝居の終幕を思わせる言い方で、彼は一呼吸を置いた。やり切った顔でこちらを見て、俺の嫌悪感ある表情にすかさず「聖子は愛されたかっただけなんだ」とフォローを入れられたが、それはむしろ神経への逆撫でにしかならなかった。
(これ、悪いの全部お前じゃない?)




