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7-­③




 心地の良いキーボードの音が耳を突き抜け、今しがた会社のデスクに座っていることに気が付いた。無意識だったのだろう、あの後に全身から発汗した感覚だけはあったが、どのような経緯でここに座っているのかは思い出せない。案の定自責の念に駆られていたのか。

 時間は朝の7時だった。木内君から促され、社内には4人しかいないがさっさと朝礼を済ませようと、回らない頭を振り絞っては決まり文句を言っていった。どうせ大した報告はないのだからと流す感覚で仕切っていたが、何故か3人はそわそわした様子をしており、僕は気にせずそのまま進めていったが、ある程度報告も終盤に差し掛かったタイミングで、我慢ならなかったのか佐々木が口を開く。


「で、あれなんなんすか?」


 他2人も呼応するようにこちらに視線を飛ばすが、何が何だかよくわからずに、ここは恥を忍んで普通に聞いてしまった方が手っ取り早いと「何の話だ?」とみんなに視線を飛ばし返した。


「にゃにっちぇー……、ねぇ?」

「こっちもよくわかってないっすからねー」


 と、それ以上も以下もない適当な相槌に頭にきそうになったが、すかさず木内君が説明をいれてくれる。


「朝のメールだよ。あんな大掛かりな仕事、本当に手ぇつけんのか?」


 なおよくわからず顔をしかめたところ、丁度そのメール画面をモニターにつけていたらしい江越が手招きし、僕に画面を見せてくれた。仰々しい文章を要約すると、他会社で行われた仕事の引継ぎを弊社が請け負う、というもの。そのうえ機密な情報も書かれているのでたちが悪い。


「なんだ? 悪戯ではないのかい?」

「やー、ちゃんしたとっからのやつでよ。引き受けてくれてありがとうございますー、なんちぇー書いちょるから、社長がやったんやないんすか?」

「いや……、そもそもこんな大きいところとパイプなんてないからね」


 とは言ったが見覚えはある。なにかどこかで心当たりが……。


「あっ、これ妻のところの……」


 そうぽつりと漏らすと3方向から首が向き、その不穏な呟きを問いただすよう取り囲まれた。


「奥さんの会社がやってた案件ってことっすか? それって横流しじゃないっすか」

「出るとこ出たら裁判沙汰だぞ。聖子さんから何か聞いてないのか?」

「何も……」


「奥さんってあのでっかいとこの人っすよねー。あっこうちと関わりなんてありましたっけ?」

「いや、あるわけないだろう」

「でーもでもでも、社長も知らんかっちゃんですよね? じゃっちゃその人が個人で勝手に流しちょるんやないん?」


 その一言で空気が静まり返る。全員が察しのついている身内の不祥事に、空気の読めない発言がこの囲み取材をお通夜にしたのだ。


「おい……」

「あっ、ちゃー……、すいましぇん」


「もし、もしこれが個人であれば妻の仕業だろう、目的はわからないが……。一旦ここには僕から連絡を入れておくから、みんなは業務に集中してほしい」


「「はーい」」


 3人共に持ち場に戻り、またカタカタと心地のいいキーボード音が職場に響いたが、その中から「ぬか喜び」だとか「信頼が」だとかが聞こえようものならあまりに肩身が狭いので、そそくさと玄関先にある固定電話へと逃げていった。


 理不尽な怒号、上の空の家庭環境、そもそもが敗戦処理である常務と精神の疲労が絶えず、今更になって気を使い始めた今日飲みに行きませんか? 攻撃も、子供いるからと防衛網を張るだけでしかない。何かを得るために何かを犠牲にして、そこで得たものもまた別の何かを得るために犠牲にして、すべてを犠牲に結局得るものは虚ろだという悪循環。自転車のきしむ音がからっぽの中身を満たそうと、僕の体に入ってきては抜けた底から落ちていった。

 普段以上に生暖かさがある風に、僕から放たれた「子供いるから」が反響する。頭の片隅でこびりついては、ここが自分の居場所であるかのように奏でられた。


「子供……」


 ふらつきながらも冷たい風が目に入り、一瞬まばたきをすると、虚ろの中にクリアな視界が映りこんだ。眼前に繰り広げられたのは、対向からやってきた呆れ交じりな笑みを浮かべる母親と、呆れた笑みを作り上げた張本人であろう息子。今日の夕飯はカレーがいいと言っている。カレーの材料なんてないでしょと言っている。僕は、なんとなく目を奪われていた。

 しかし、そんなことをしていたものだから、前方不注意で目の前のフェンスにぶち当たり、そのまますっころんでしまった。


「あー、いてて……」


 コンクリートに強打した肘をさすりながら、ばらまかれた鞄の中身をかき集めようと、四つん這いで書類を拾ったがその時だ。僕は初めて、これが鞄に入っていることを知った。息が震えた。もし日中、手さぐりに当てていれば、くしゃくしゃにして捨てていたであろう。こびりついていただけのそれは、ずっと前から僕の中に。



『和葉……何しているの……?』

『今日ね、パパちょっとしんどそうだったから、お手紙書こうと思って!』

『そう……なの』

『でもね、がんばれーとかはちょっと違う気がするのよ。いつもお仕事がんばってるし』

『確かに……そうね……』

『あっ!! じゃあこれがいいかも……!!』



「ぱぱががんばってるのわたしはしっているよ またがんばらなくてもいいひにあそぼうね 和葉」


 光の差さない真っ暗闇の中、半身はタールの中につかっていて、それでいて1人で歩いて、もがいて、歩き疲れて、とうとうどうでもよくなって、沈んでいく。だが、望む光は真後ろに、こんな不甲斐ない人間にずっとついてきてくれていて、すぐ手の届く距離にあったのか。


 僕は力をペダルに集中させ、その限りを尽くして疾走した。水に流してもらおうなんて言わない。ただ、娘と話したい。聖子と笑いたい。3人で水族館にも行こう。ごめんって、今まで悪かったって。また、1からでも、一緒に。


 僕はこの時、あの横流しの件についてはもう頭にはなかった。2人に会いたい一心だけで、ただ主として家に帰る責任だけで、夕日へと駆けて行くのだった。




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