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7-­②




「あっ! ママだー!!」


 などと叫びながら玩具を放り、和葉は廊下をだとだと走って玄関へと向かった。僕にはエンジン音すら聞こえておらず、側溝の蓋がガコンと鳴り、そこで「ああ、今日も帰って来たのか」と初めて気付き、ため息が出ていく。


「おかえりなさい!!」

「ふふ……、ただいま……」


 娘とじゃれる妻の姿をもう4年も見ているが、いまだに慣れることはなく、ずっと僕の中できれいな存在であり続けていた。それは彼女がパートナーであるということを受け入れていない証拠だと、感付いているはずなのに。


「智光さんも……ただいま……」

「ああ……」


 微笑む妻に無骨に返すが、そう返ってくるのだともわかった様子で2人の会話はそこで途切れた。はたから見て見る通りに夫婦仲は険悪だった。


 聖子とは大学の頃に知り合った。そのころから容姿は整っていて友人も多数いたのだが、友人でさえ気が付かない程に微弱な他を寄せ付けない雰囲気を併せ持っており、そのミステリアスな魅力に惹かれていった。卒業後、たまたま同じ職場に就職しており、数年で僕の方から気持ちを伝え今に至る。

 聖子はそれでいて実家も裕福で、故に勉学も盛んで頭がよく、更には他人を慮れる。なにからなにまで非の打ち所がない完璧な淑女であった。


 おこがましいが僕も大概に優等生ではある。20代で独立し、起業も果たし、うまくはいかなかったがそんなことを平々凡々な人間はしないはずだ。だが、うまくいかなかったからこそ彼女は躍進に躍進を重ねた。出産後も降格希望などせず、僕の尻拭いをしていったのだ。僕がこの夫婦の足を引っ張った。

 僕の上の空はまさしく彼女だ。不釣り合いなのだ。ストレスなのだ。彼女の存在が僕の全てを否定しうるのだ。


「そうだ……、会社で……水族館のチケットを……いただいたの……」

「水族館!! 行くの!? 行くのっ!!?」

「ええ……、今度の日曜日にでも……どうかしら……?」


「サメ!! クジラ!!!」

「和葉……クジラはいないわよ……」


 夕食をとりながら思い出したように口を開いたかと思えば、なんだくだらない話だと興ざめした。


「智光さんも……」

「僕は行かないよ。仕事もあるし。それにそれ、ペアチケットじゃないか。2人で楽しんできなよ」

「日曜日……ですし、その……、智光さんも……ちょっと息抜き……したらと……思って」


 「息抜き」という言葉にカチンときたのを感じた。なんの当てつけだとも思った。しかしそれは抑制しなければならないものだった。わかってはいた。が、この時の僕は「このまま感情だけで表に出せばどうなるのだろう」と、それだけが喉を突き動かしたのだ。


「そりゃあ君は息抜きもできるだろうけど、僕はそうもいかないんだ。みんながみんな、君のようだと思うなよ。もっと考えて喋ってくれよ」


 敵対心のもとで叫んだ。ここまで言えば引き下がるはずだ。しかしこの日、彼女は抵抗というよりは諦めのような、弱くか細く、それでいて真に迫る、彼女なりの感情の爆発が起きていたのだろう。


「じゃあ……! じゃあ……、私は智光さんを、家族を……、理解……できないのです……か?」


 僕はやってしまったと思った。これは明日に後悔するやつだと、返答してはいけないやつだろうと。しかし僕の喉はもう感情で塗りたくられている。奥底のそれを声にのせ、嘔吐のように吐き出した。


「無理だ。できない。君には絶対に……!」


 泣いてわめいて我儘をするように。


 そういえば小学生の頃だ。なんだったかな、思い出せないが何かをして、母親からカンカンに怒られた記憶がある。その時僕は母がどんな顔をしているかが気になった。どれほど目がつりあがっているのかとか、頬は赤く染まっているのかとか、角とか生えているかもとか。

 そして今、僕はまたその時の好奇心がふつふつと甦り、勝り、見たくもないものを怖いもの見たさだけで覗いていたのだ。


 だが、それはもう黒であった。白であった。宇宙だった。深海だった。そして僕は飲み込まれて、消えた。




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