7-①
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「足元が崩れていく感覚」と、表現すれば月並みだろうか。しかしこの根っこは、それはもう赤子を抱く母親か、はたまた旧知の宿敵か、足元にからみついては強く抱きしめ離さない。
念願かなって設立までにこぎつけた我が社も、そろそろ見納めになることだろう。維持、経営、税金、社員のコミュニケーションにその他諸々、事前知識への怠慢に嘆いたところでもう後の祭りでしかないのだ。
「ま、ここまできたらもう心中も覚悟っすよ」
「え~、でも佐々木君ブログで稼いでるちゅってんじゃん? うちらぁそれもないんやけども」
「そりゃあ自分は我が子がいるっすからねー、江越ちゃんもどっか嫁げば危機感でるんじゃないっすかぁ」
「あ? なんじゃぁ? セクハラか、おどりゃぁ。訴えちゃろかコラ」
この舎弟のような喋りをする男は佐々木 由紀という。長身で、秋風が吹き始めたにも関わらずタンクトップを着て小刻みに震えている。度が超えていない程度に頭は悪い。
そしてこの日本の西側から罵詈雑言を浴びせられそうな方言の女は江越 穂乃実。ぷっくりとして紫がかった上瞼と、ぷっくりとして紅色の唇がトレードマーク。度を二歩三歩超えて頭が悪い。
「てか、そもあんた、そーゆーの気にしないっすよね」
「おぉん。正直うちゃー実家暮らしやしぃー? こりも経験みてーなとこあるって思ってやっとんよ」
「ひゃー! 羨まシー」
1年も働けば職場の風通しの良さは理解の範疇だろうが、この2人に限って当てつけのつもりはない。不謹慎なんて言葉は頭の隅にもないらしい。何故ならバカだから。しかし、それを見かねた僕の右腕は釘を刺しに行ったようだ。
「おいお前ら、あんまそういうこと職場で話すなよ」
「や~ん、木内しゃーん! 佐々木君がセクハラしてきよるんですよ~。たすけてー」
「いや、全部聞こえてんだよ……。仕事中だぞ、集中しろ」
「うぇ~、ちゅってもこんな遺骨こつこつしちょるみたいな作業、気乗りぁあしゃーせんし」
「仕方ねーだろ、もう回って来る仕事もこんなんしか残ってねーんだから」
「じゃっちゃーええやないですか、もうちょいで定時やすし。ここで独身拗らせてんのうちらだけなんだから、仲よぉしゃーしょーよ」
「関係ないぞ、口じゃなくて手ぇ動かせ」
「あはは」
「…………」
「……それAVの常套句みてぇ」
「お前……、俺が言うのもなんだけど、一生彼氏できないと思うわ……」
無駄話も結局弾み、定時を回り、ぐーんと肩を伸ばしてさっさと退勤しようとする2人に木内は睨みをきかせつつ、こちらにもそれを訴えかけてきた。「押切、お前からもなんとか……」と、そこまで聞こえたところで引っ込まれ、真面目に答える気もなかったが、僕も何だ何だと顔を上げざるを得なかった。
「どうしたんだい?」
「お前……、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「ん、ああ」
「大丈夫」とも「大丈夫ではない」ともとれるイントネーションでの返事は、彼の憂慮に堪えなかった。
そんなことも配慮せず、佐々木のやつは脳の縮んだバカ丸出しな声量で、恐らくは面白がって会話に割り込んでくる。
「あれ、社長なんか上の空じゃないっすか?」
「だ、大丈夫だよ……」
「まあ、自分の会社がこんな状態なら仕方ないとは思うけど……、ちょっと心配だな」
するとバカ丸出し第2号も一緒になって、それまたアホな話を展開するのだ。
「はーん……、もしかー今チャンスかぁ?」
「なんだ江越、なに企んでんだ。変なことすんなよ」
「でも給料5億倍にすぅ契約とか結び時っちゃっちゃうん!!?」
「お前、この会社嫌い?」
気が滅入りそうだった。こんな社会不適合な人材を雇ってやっているのはこの僕だぞ、とでも言ってやりたかった。木内君は優しすぎるのだ。こいつらと同じ土俵だなんて思われてもいいのか。
僕は構うのも嫌になり、すぐさま立ち上がって軽く手を振って、会社を後にした。もうその時には彼らの顔も見ていなかった。
だが、ことの元凶は会社であれ、僕をタールの中へと落としたのはそれではないのだ。どちらかといえば、先刻以上に現状のが上の空ではあろう。
仕事終わりには僕が和葉を迎えに行くことになっている。とっくに僕の方が帰りが早くなってしまったのだ。
「和葉ちゃん! お父さん来たよー」
「かずはちゃんおむかえー」
「あっ、パパだ! おかえりなさい!」
「おかえりは違うんじゃないかな和葉。さ、帰ろう」
自転車で颯爽と夜風を切りながらの帰り道。僕の仕事が早まれば早まるほどに和葉と一緒にいる時間は長くなるはずなのだが、反比例するように会話自体は少なくなっている。
「今日ね、かけっこで私が1位だったんだよ。でね、アユちゃんがねぇ2位で、みみちゃんが3位で、あっ、みみちゃんは途中でこけたのに3位だったー」
「うん、そうか……」
理由は明確だった。僕が娘の話に一切興味が湧かないからだ。和葉は年相応なたどたどしいものの言い方だが、そんなものに耳を傾けるほどに有益な話をしているとは思えない。僕に得のないことを、疲れ切った今何故に受け取らなければならないのか。
そして僕の些細なプライドは、これが日をまたげばきっと後悔をする思惑なのだと、何時に気付くのだろうか。




